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青森県南部町斗賀
2014/08/24取材
宝亀年間(770~80)、二条関白太政大臣藤原有家は、平秋朝の讒言により太政大臣の座を追われ、都落ちして九戸郡侍浜に到着、有家村に居住した後、斗賀村に移り生涯を閉じた。
その死後、無罪が判明し、大同2年(807)、将軍藤原利仁が勅使を奉じ、斗賀の里に霊現山新禅寺を創建、十一面観音を安置したという。
古くは神仏混交の修験道の地で、八戸の永福寺などとの交流もあり、それが南祖坊の伝説とも関わっているようだ。
現在、斗賀神社は、八戸地方から南部地方に広がる糠部三十三観音の第16番札所となっており、霊現観音、霊現堂とも呼ばれている。そのため扁額には、霊現山と寺院の山号が掲げられている。
また、南部氏が南朝方だったためだろう、南朝の年号である「正平二十一年(1366)」銘の県内最古の鰐口が保管されている。
明治初年の廃仏毀釈により斗賀神社と改称した。