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青森県五戸町倉石中市字中市

2014/08/24取材

 

圓子家は天正年間(1573~92)は、九戸郡圓子村と閉囲郡千徳村に3百石の領地を持ち圓子村に住んでいた。しかし天正19年(1591)の九戸の乱には九戸政実に与し敗れ、断絶となった。

その後許されて、弟の種則が百石を賜り、旧地圓子村に居した。しかしその子種貞の代に故あって禄を失い、慶長年間(1596~1615)にこの地に移り住んだ。

四代目種永の代に許されて百石を賜り、五代目種住は五戸代官所御給人を勤めた。七代目宣種は元文年間(1736~41)に百二十石となり、盛岡御支配の直参となり盛岡に移った。

その後の圓子氏は、代々盛岡に住み、この地には従兄弟にあたる圓子種次が五十石御給人としてこの地に住んだ。その子種香の代に百四石となり、御山守として代々藩有林の管理にあたった。

この建物は、江戸末期の安政年間に建てられたもので、武士住宅としては珍しくその原型を残している。