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青森県八戸市長者1丁目

2016/04/07取材

 

享保元年(1716)頃、この地域一帯に悪疫が流行し、病没者が続出した。八戸藩主南部廣信はこれを心配し、祈禱寺の豊山寺に「領民を救うには、どのような神を祀ったらよいか」と問うた。

住職は、「天子様は万民を病難から救うために、祇園宮八坂神社の牛頭天王をご奉斎しておられます」と答えた。南部廣信はこれを聞き、早速京都の名工に牛頭天王のご神像を刻ませた。

祇園宮で開眼式をすませ、享保2年(1717)長者山上の新社殿に勧請し、祈祷を行わせたところ、悪疫流行は漸次衰え病気はなくなったという。

明治2年(1869)の廃仏毀釈令で廃社になったが、新社殿に安置し、その後現在地に遷座し今に至っている。

地域の方々は「天王様」「熊野宮」「新羅様」などと呼び、今も広く崇敬を集めている。