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青森県平内町小湊

2014/08/23取材

 

高橋竹山は津軽三味線の名人で、一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者である。演歌歌手北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデルでもある。

竹山は明治43年(1910)、この平内町小湊に生まれた。3歳の時に麻疹をこじらせて半失明し、その後、盲目の門付芸人のボサマの戸田重次郎から三味線と唄を習い、17歳頃から東北北部・北海道を門付けして歩いた。

太平洋戦争の激化で、三味線では生活が支えることが難しくなり、昭和19年(1944)、鍼灸師とマッサージ師の資格取得のため県立八戸盲唖学校に入学。一時芸の世界から身を引いた。

その後の昭和25年(1950)頃から、津軽民謡の神様とも呼ばれた成田雲竹の伴奏者として各地を興行、雲竹より『竹山』の芸名を受けた。
成田雲竹は高橋竹山に、他の津軽民謡に三味線伴奏を付けるよう依頼、以後雲竹の作詞作曲した『りんご節』など、雲竹、竹山のコンビで多くの津軽民謡を発掘制作し発表した。

昭和38年(1963)、キングレコードから、史上初の津軽三味線独奏LPレコード『源流・高橋竹山の世界~津軽三味線』を発売。これによって竹山は、津軽三味線奏者としての名声を得た。

昭和46年(1971)、青森放送で竹山を取り上げたドキュメンタリー『寒撥』が放送され、一般にその名を知られるきっかけとなる。番組は同年度の文化庁芸術祭で優秀賞に選出された。

また小劇場渋谷ジァン・ジァンに初出演。その後も定期的に開催したライブで津軽三味線は多くの若者の心を捉え、ブームのさきがけとなった。

昭和52年(1977)新藤兼人脚本監督により映画『竹山ひとり旅』が製作され、モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品された。また
昭和61年(1986)にはアメリカ公演を行い、これらが世界に津軽三味線の名を知らしめることとなった。厳しい論評で知られるニューヨーク・タイムズは「まるで魂の探知器でもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と最高の賛辞を贈った。

平成5年(1993)、ともに労苦を重ねたイタコだった妻ナヨが没し、竹山もそれを追うように、平成10年(1998)、故郷のこの地で没した。享年87歳、戒名は「風雪院調絃竹山居士」。