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青森県青森市大字高田字日野

2014/08/23取材

高田城は比高10~15mの堤川左岸の河岸段丘上に位置する。規模は推定で、東西約60m、南北約150m。西、北、南の三方は、幅10~15m、深さ3~10mの規模の堀で囲まれている。東側は比高約10mの崖を利用している。

高田城の創建時期については明らかではないが、天正年間(1573~91)の頃には、高田城主として土岐大和之助則基の名が見える。則基は三戸南部氏の家臣として、津軽郡代石川高信に仕え、高田村、荒川村に800石の知行をもって弘前大境目の任を務めていた。

戦国末期の当主則基は、三戸南部氏の津軽代官石川高信と浪岡御所北畠氏に与力していた。天正6年(1578)、浪岡城が大浦為信の軍勢に攻められ落城した際、則基は高田城において討死し、則基の長男である則重も浪岡城で討死にした。

しかし二男則忠と三男則古は生き延び、石川高信の次男で、次の津軽郡代の石川政信の娘を戦乱の浪岡城から救出し、三戸城主である伯父の南部信直の下へ無事に送り届けている。

後にその娘が、七戸城主である七戸隼人正直時に嫁いだ際、二人はこれに従い、直時の命で土岐氏から高田氏に改称して七戸に定住した。

高田城は、この大浦為信の攻撃のあと、廃城になったものと思われる。