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青森県青森市横内…常福院

2014/08/23取材

 

天文23年(1554)、朝日御前の夫の堤弾正則景は、九戸氏が起こした乱に、大浦為則の弟の守信を大将とし、自分は副将として出陣し、剛勇の名をほしいままにし、多くの敵を討ち取った。しかし遂に矢もつき太刀も折れ、馬も疲れ果て、鹿角で敵の中に分け入り討ち死にしたと云う。

朝日御前はこれを聞き、深く嘆き悲しみ、髪を下し墨染の衣に身をやつし、この地に草庵をむすび、夫の菩提を弔い、永禄4年(1561)、この地で没した。

明治28年(1895)、この地に石碑を建てて夫妻を供養したが、その後、青森市内の畑地で、半ば土中に埋もれた五輪塔一基が発見され、それは鬼孫六と呼ばれていた堤則景の墓石だとされ、この地に移され、夫婦一対の石塔となった。