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青森県弘前市藤沢字野田

2015/08/26取材

 

別名:メノコ館

この城は、元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡にさいし、その敗走の軍勢が津軽に落ちのび、最後まで抗戦した持寄城の戦いで有名な城である。

はじめは、蝦夷の城塞のチャシに始まったもので、自然の地形を利用し、周囲には壕を、頂きには柵をめぐらした山砦である。

大同2年 (807) 、蝦夷が奥羽各地で反乱を起こし、征夷大将軍坂上田村麻呂は各地の蝦夷を滅ぼしこの地に到った。津軽へ入ると、阿蘇部の森 (岩木山) の蝦夷を平定し、白神岳の族長の手長足長を討ち取った。

この相馬山のメノコ館に籠った蝦夷の族長は女性だった。目と目の間が6寸もある大きな顔、身の丈は1丈もあり、その名は、目六面長 (メルクオモナガ)といった。堅固なメノコ館に拠り、神通力によって気象を操り、その神出鬼没の戦いぶりに田村麻呂は苦戦したが、多勢に無勢、蝦夷の多くは討たれ、激しい風雨の中、目六面長は逃げ去ったという。

 

その後この城は、鎌倉幕府滅亡の際の、最後の戦いの場になった。元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡にさいし、その敗走の軍勢が津軽に落ちのび、最後まで抗戦したのが歴史に残る持寄城の戦いである。

元弘3年(1333)、執権北条高時が治める鎌倉幕府は、後醍醐天皇の倒幕計画によって滅亡した。北条氏の一族の安達高景、名越時如らは、所領のあった秋田に逃げ、土崎の湊城に立て籠ったが、在地の諸将は朝廷方につき、朝敵として対峙されたため、やもなく御内人の曾我道性を頼り津軽平川の大光寺館に拠った。

これに対し岩館曾我氏の曾我光高や、田舎郡の成田泰次・工藤貞行らは朝廷方に付き、陸奧国司北畠顕家の命を受けた多田貞綱、南部師行らの支援の下、翌年の元弘4年(1334)大光寺館は攻撃され、逃れた石川館も落とされた。

当時難攻不落といわれた持寄城の攻防も山上に築いた砦であったため、この年の異常気象には抗し得ず、11月、籠城の諸将も戦況の限界と、北条氏への恩顧に報いる努力を果し得たことを確認して、遂に砦に火を放ち、朝廷方の軍門に降ったと云う。