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青森県弘前市八幡町1丁目

2015/08/26取材

 

創建は平安時代初期、坂上田村麻呂が蝦夷征討の際、岩木村に宇佐八幡宮の分霊を勧請し戦勝祈願をしたのが始まりと伝えられる。

津軽氏の祖の大浦光信が、鰺ヶ沢の種里城から大浦城に居城を移すと八幡宮が大浦城から見て北東に位置していたことから、鬼門鎮護の鎮守社として崇敬社となり、天正18年(1590)の火災で焼失すると、大浦為信が社殿を再建した。

慶長16年(1611)、弘前城の完成に伴い、二代代藩主の津軽信牧が居城を移した後の慶長17年(1612)、弘前城の鬼門の位置である現在地に遷座し、社領30石が寄進され、鬼門守護、弘前総鎮守の格式を得て、社殿の造営や修繕、祭祀に至るまで藩費によって賄われた。

天和2年(1682)から、藩主在国の隔年に行われる神輿渡御の祭礼は盛大を極め、藩内から多くの神官が集まり各町内から山車が繰り出されたと。

当初から神仏習合であり、弘前八幡宮の別当には領内の寺社総取締である最勝院があたった。しかし明治初頭の神仏分離令により、別当だった最勝院から独立し、明治13年(1880)に県社に列した。

現在の本殿、唐門は、慶長17年(1612)に建立されたもので、本殿は三間社流造、厚板葺型銅板葺、組物など細部には極彩色で彩られ蟇股や扉などの彫刻には桃山時代の工法が用いられている。唐門も随所に桃山様式が見られる建物で、入母屋、こけら葺、四脚門、弁柄色塗り、軒唐破風や四隅の反り、小組格天井などに特徴がある。

弘前八幡宮本殿、唐門は、数少ない江戸時代初期の社殿建築の遺構として大変貴重であり、昭和11年(1936)に国指定重要文化財に指定されている。