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青森県南部町字小向聖寿寺(三光寺境内)

2013/08/21取材

三光寺境内の一画に、円墳状の塚があり、これが奥州南部氏の祖である南部光行の次男の実光の墓と伝えられる。

南部光行は、治承4年(1180)、石橋山の戦いで源頼朝に与し、甲斐の南部牧を与えられ、このときから南部を称した。文治5年(1189)、平泉征討の戦功で、陸奥糠部郡などを与えられ、平良ヶ崎館を築き、この地に実光を置いたと云う。

とはいえ、この当時の鎌倉御家人は、鎌倉に屋敷を置き出仕するのが常であり、実光も奥州よりも鎌倉を中心として活躍し、奥州には代官が置かれたものと考えられる。

実光は、承久元年(1219)、本領の甲斐には波木井六郎実長を残し、糠部に下向し、兄弟を各所に配したとされる。長男の行朝は一戸氏の祖となり、四男朝清は七戸、久慈氏の祖に、五男宗朝は金田一、櫛引、足沢氏の祖に、六男行連は九戸、小軽米、江刺氏の祖となり、後に三男実長は八戸南部氏になったと伝える。

しかし、当時は糠部の領主として、横溝氏や工藤氏などの名前が見られ、南部氏が一元的に糠部一円を領していたとは考えにくい。その後の得宗家と接近した実光の政治力や、南北朝期の争乱の中で、次第に支配を強めて行ったものと思われる。

実光は、承久3年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた承久の乱では、武田信光、小笠原長清、小山朝長等とともに北条泰時の軍に加わり宇治川で戦っている。また、嘉禎4年(1238)に四代将軍藤原頼経が上洛した際には随兵を務め、建長4年(1252)には、新たな将軍として迎えられた宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣の供奉人を嫡男の時実と共に務めている。

この時代は、既に将軍は傀儡と化しており、実権は得宗家に集中していた。御家人たちは得宗家に近侍することを望み、実光も北条時頼に接近し、御内人に昇進し、幕府内に相応の地位を築いたと思われる。

建長6年(1254)12月、享年74歳で没した。