スポンサーリンク

青森県南部町字小向聖寿寺(三光寺境内)

2013/08/21取材

※拝観要予約(南部町役場)

この霊屋は南部利直が没した寛永9年(1632)かその翌年に、世子の重直によって建てられたものと考えられている。

すべて素木の無節の南部ヒバで造られ、垂木、扉、釘隠を、金銅の金具で美しく飾っている。内部は内陣と外陣に分けられ、内陣は祭壇で、一枚板の鏡天井、外陣は畳敷きで竿縁天井で、内陣と外陣の境は4枚建ての格子戸で仕切られている。全体として清楚ながら力強い趣がある。

南部利直は、南部氏第二十七代当主で、盛岡南部藩の初代藩主である。天正4年(1576)、南部信直の長男として生まれた。生母は信直後室の慈照院とされるが、正室で早世した南部晴政の娘とする説もある。

慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が死去した後は、南部氏は五大老筆頭の徳川家康に近づいた。慶長4年(1599)、父信直が死去すると家督を継ぎ、南部氏の第二十七代当主となった。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、家康は東北、北陸の大名に対し西軍の会津上杉景勝の征伐を命じ、利直は最上義光の後援として山形に出陣した。これを好機とした和賀氏や大迫氏は、伊達政宗の援助を受けて一揆を起こし花巻城を攻めた。これに対し利直は、山形から一気に反転し一揆勢を攻め、翌年の慶長6年(1601)までに鎮圧した。

以降は盛岡藩政の整備に着手し、白根金山をはじめとする鉱山を開発し財政を安定させた。この時期には領内の産金が多くあり、財政に恵まれて近世的支配体制が進展した。元和元年(1615)には、盛岡城を築城して城下町を形成し、三戸城下の住民も盛岡に移した。

利直は中央集権化を進め、新たに家臣団に加わった血縁関係のない多くの家臣を些細なことで処罰、追放し、その武断的な手法から「十和田の大蛇」と恐れられた。

また、家系的には南部宗家にも匹敵する八戸氏が、分離独立を意図することを恐れ、八戸氏の当主の八戸直政が病没(毒殺説あり)したのを機に、次男の政直を送り込もうとしたが失敗し、結局八戸氏は、当時、未だ南部氏に従わない遠野に移封された。

当時、すでに切支丹は禁じられていたが、次男の政直が領する南部領花巻には切支丹が増えていた。これは、花巻と接する伊達領の水沢福原を、当時の高名な切支丹である後藤寿庵が領しており、その影響が強かったと思われる。利直はこれに対して切支丹を禁じる徳川幕府への懸念と、伊達政宗に対する警戒からだろう、南部政直を毒殺した。

大阪冬の陣の前に、白根金山の開発など大きな功績のあった北信景が、利直のたわむれから10歳の嫡子を失い出奔し、大阪城に籠城する事件があった。利直はこのことで徳川家康から疑われ、大阪夏の陣から外された。大阪城落城の後、北信景は捕縛され盛岡で処刑された。

利直の後半生は、徳川幕府との関係強化に努め、領内においては独裁集権化を進めることでの、盛岡南部藩の基礎固めに費やされた。

寛永9年(1632)8月、江戸桜田屋敷で死去、享年57歳だった。その跡は、三男の重直が継いだ。