青森県南部町字小向聖寿寺

別名:三戸城、本三戸城

馬淵川北岸の比高約20mの台地上に築かれた平山城である。東西約350m、南北約300m程の規模で、現在はりんご園になっている。南と西は段丘崖に守られ、東側は沢を利用した堀で、北側は丘陵を断ち切った空堀で区画されている。北側が最高部になっており、広大な平場が見られ主郭が置かれていたものと思われ、南、西側に数段の郭が置かれていたと考えられる。南にも堀があり、その西端に虎口が見られる。

平成16年(2004)、聖寿寺城跡として周辺地区とともに国指定史跡として指定を受け、現在調査整備されている。

甲斐源氏加賀美遠光の三男光行は、奥州平泉攻めの功により、陸奥糠部郡に所領を得た。建久2年(1191)南部光行は、家臣とともに相内館に入り、翌建久3年(1192)、平良ヶ崎館を築き、この地を支配する拠点とした。

光行は長男行朝を一戸に、三男実長を八戸に、四男朝清を七戸に、五男宗朝を四戸に、六男行連を九戸に所領を分知し、次男実光に南部家の家督を継がせ、その後の、三戸南部氏による北奥羽支配の形を整えた。

当時の鎌倉御家人は、鎌倉にあり幕府に出仕しなければならず、糠部郡には、一族あるいは代官が統治していた。とはいえ糠部郡は南部氏の一円支配の地ではなく、工藤氏や在地領主などが入り乱れていたようだ。

鎌倉時代後期から南北朝期にかけて、南部氏一族は本格的に奥州に下向し、その居館として、また在地勢力などとの争乱に備えて、この聖寿寺城をはじめ、周辺に城館が築かれたものと考えられる。この館は、南部十一代南部信長から二十四代晴政までのおよそ200年間、三戸南部氏の本拠城で、「三戸五ヶ城」と呼ばれた城館群の中心だった。

南北朝期、八戸南部氏の南部師行は南朝方に与し、陸奥国代に任ぜられ南朝方の拠点として根城を築き、陸奥の北朝勢力と対峙するなど積極的に行動し、その勢力は三戸南部氏を凌いでいた。三戸南部氏も南朝方ではあったようだが、貞和2年(1346、興国7年)、南部政行は足利尊氏の誘いに応じて北朝方となった。

南北朝期の争乱は、南朝方は次第に北朝方に押され、政行の子守行の時の元中9年(1392、明徳3年)、「南北朝合一」がなり、最後まで南朝方として行動した八戸南部氏の勢力は衰退し、三戸南部氏の勢力は拡大した。

守行の代にはすでに戦国期で、永享4年(1432)、南部氏は出羽仙北郡に侵攻し、小野寺、湊安東氏を制圧して仙北郡の領有に成功した。また同7年(1435)には和賀氏の内訌に乗じて、稗貫、和賀郡に勢力を拡大させた。

この守行とその子義政の代までに、南部氏は糠部郡の他に、葛西、大崎、和賀、紫波、閉伊、仙北、由利、庄内、越後境まで勢力を飛躍的に拡大した。しかし義政の死後は、当主が病弱などの理由で相次いで交代し、在地勢力に対する統制が弱まり、寛正年間(1460~65)には、仙北郡の支配を断念した。

その後、16世紀初期の南部安信の代になると、紫波郡を狙う和賀氏を撃退し、津軽の反南部勢力の反乱を鎮圧し、次弟石川高信を津軽郡代として石川城に、三弟長義を五戸浅水に、四弟信房を石亀に、五弟秀範を鹿角郡代として毛馬内に配置し領国支配を確立した。

安信の跡は嫡子晴政が継いだが、南部氏の南下を危惧した斯波氏、稗貫氏、和賀氏などの抵抗でこれ以上の南下は阻まれていた。しかしながら北奥羽においてはその強大な勢力は維持していた。

この時期まで、この聖寿寺城は、三戸南部氏の本拠城として続いていたが、天文8年(1539)、家臣赤沼備中の放火に遭い焼失した。これは、晴政が赤沼備中の妻女を無理に聖寿寺城に押し込めたからとも、南部氏一族との領地境の争いに対し不公正な裁定がなされたからとも伝えられる。

その後の永禄年間(1558~70)、晴政は領内の留ヶ崎に新たに三戸城を築き、聖寿寺館と平良ヶ崎館の三戸南部氏の本拠城としての役割は終わった。

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