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青森県つがる市牛潟町

2012/05/15取材

 

現在の高山稲荷神社は、当初はこの地を支配していた安東氏の創建によるものと考えられている。江戸時代の古地図には、この地は三王坊山と記されており、十三湊東方の山王遺跡に関わるものと思われる。

伝説によれば、嘉吉3年(1443)頃、安東氏は南部氏により攻められ、山王にあった多くの寺社も焼き討ちされた。このとき、山王大神が黄金の光を放ち、流星のようにこの地に降り鎮まったと伝えられる。

その後、江戸時代の元禄14年(1701)、播磨赤穂藩の藩主の浅野内匠頭が江戸城で刃傷事件を起こし、赤穂藩は改易取りつぶしとなり、このとき赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を、藩士の寺坂三五郎が奉戴し、流浪の末に津軽藩の鯵ヶ沢に移り住んだ。

寺坂は鯵ヶ沢で「赤穂屋」と号し、醸造業を営み栄えた。赤穂屋は、稲荷を大事に祀っていたが、その後蝦夷地に移住することになった際、この高山の地に祀れとのお告げにより遷し祀ったと伝えられる。

また境内には竜神宮があり、竜神を祀る池がある。その側の松の木に7月頃になるとお灯明が下がるといわれている。

その後、稲荷信仰の隆盛とともに、民間信仰として五穀豊穣、海上安全、商売繁盛の守り神として信仰を広く集めている。