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青森県八戸市内丸二丁目

2013/10/07取材

別名:法霊(ほうりょう)神社

龗(おがみ)神社は、元は三崎社と呼ばれており、雨乞い祈祷に優れた法霊という修験者が、三崎社内の池に投身することで雨を降らせた。その御霊を三崎社に合祀し、法霊明神として崇拝したと云う。

江戸時代に入ると盛岡藩により再建され、万治元年(1658)二代藩主南部重直より20石の寄進を受けた。寛文4年(1664)に八戸藩が成立すると、本丸内から現在地に遷座し、八戸藩総鎮守として規模拡張が行われ、南部家の篤い信仰を得た。

江戸中期の享保6年(1721)、豊作に恵まれたことへの感謝として、法霊社の神輿を長者山虚空蔵堂(現長者山新羅神社)へ渡御し、2日後に還御するという神事が執り行われた。これが現在の八戸三社大祭となった。

またこの地には義経に関わる伝説も伝えられる。

定説では、源義経は平泉の高館で、鎌倉の源頼朝の意を受けた藤原泰衡に攻められ、妻子ともども自害したとされる。しかし三陸海岸から八戸、津軽半島に到る各所に義経主従に関わる伝承が残されている。いわゆる義経北行伝説である。

義経は、公家の久我大臣の娘だった北の方を伴い八戸まで逃げ延び、長者山に館を築き一旦落ち着いた。しかし北の方は、逃亡の疲れからか病を得て(1205)亡くなった。

義経はその亡骸を、当時京ケ崎と呼ばれていたこの地に葬ったと云われ、北の方が使用していたと云われている手鏡が龗神社に保管されている。また同神社には、源義経北行伝説を記した「類家稲荷大明神縁起」が伝わっている。