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青森県八戸市長者1丁目

2013/10/07取材

応永17年(1410)、三戸南部の南部氏十三代守行は、出羽の安東鹿季が領内に侵入して来たため、八戸南部九代長経父子に出陣を要請してきた。それに応じて長経父子は出陣したものの、地理に暗く、苦戦の連続だった。

そんな折に、1人の老僧が陣中を訪れ、安東勢がこの先に伏兵を配して待ちかまえていることを言い立ち去った。この老僧のおかけで、南部軍は勝利をおさめ、帰国することができた。

南部長経は、この敵の様子を知らせてくれた寶山正彌珍(ほざんしょうやちん)和尚を尋ね、八戸に招いて八戸の松舘に一寺を建立し、田料百石を寄進して八戸南部氏の菩提寺とした。

しかし、寛永4年(1627)、盛岡南部初代藩主南部利直の命により、この地から遠野へ国替えになり、大慈寺も共に遠野へ移ってしまい、この地は人家もまばらになり、大慈寺跡は住職も無く廃れつつあったが、南部利直は寛永5年(1628)、鹿角から虎山玄龍(こざんげんりゅう)和尚を招き五十石を寄進し中興開山とした。

寛文4年(1664)、幕府の指示で南部盛岡藩は分藩し、八戸藩二万石が生れ、大慈寺は寺領五十石をおくられた。天保年間(1830~44)の初め頃、現在地に大慈寺を建て移った。現在の山門は、この時建てられたものと思われる。