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八戸市新井田字寺ノ上(対泉院)

2013/10/07取材

対泉院の山門の左右には、餓死萬霊等供養塔と戒壇石が建っている。

天明3年(1783)3月、岩木山が噴火し、7月には浅間山が噴火した。この影響により日射量が低下し、農作物に壊滅的な被害をもたらした。それまでも東北地方は凶作が続いており、この天明の大飢饉は、東北の農村地帯を飢餓が襲い、餓死するものが続出した。

被害は東北地方の農村を中心に、10万人とも伝えられる死者を出し、逃散した者も含め、村ごと無くなったところもある。全国的には、1780年から86年の間に92万人余りの人口減をまねいたとされる。この対泉寺領では、百姓の家が47件から18件に減り、男女308人の村人の内、助かったのは76人だけだった。

「餓死萬霊等供養塔」と「戒壇石」は、天明5年(1785)、大凶作と疫病の大流行による餓死者、病死者を供養するため、新井田村の有志たちが願主となって建立したもの。

裏面には、当時の天候異変、作柄、庶民の食生活、疫病での餓死者数、放火強盗などの社会不安の状況や後世のための教訓などが記され、後世の人々が、穀物を蓄えて置くようにとの教訓も刻まれているという。またかつては人肉を食す様子を記した部分が存在したといわれ、意図的に削られたとも伝えられる。