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青森県七戸町字菩提木
2013/04/26取材
千曳神社は、大同2年(807)、坂上田村麻呂によって創建されたと伝えられる、子にでは最も古い古社である。江戸時代には、幕府巡検使の参拝所であった。南部領では巡路第一の地であったが、社殿が荒れ果て、見苦しいため取り壊ししばらく仮社としていたが、明和2年(1765)再建された。 古くから「日本中央」と刻んだ「壷の石文」が建てられたという伝説があり、江戸時代から多くの人々が探し求め、またこれを尋ねた文人墨客も多い。
名にし負う 千曳の石に あとしめて 動きなき世と 神や守らむ 南部重信
たのめぞや 今世の身かは 後の世も なほやすかれと 道行の神 遊行上人
石文の 跡をさぐりて 思はずも 千歳の檜葉に 逢ひにける哉 大町桂月
明治時代にも、天皇東北巡幸の際、宮内庁が青森県に依頼して神社の下を発掘調査させた経緯があるがこのときも発見されず、その後、昭和24年(1949)に発見された。
また、この地には次のような伝説が残されている。
・大蛇のお姫様
七戸の城には水堀があり、そこには水神様がいた。その神様は蛇の神様で、七戸の殿様を守っていた。普段は美しいお姫様の姿をしていたが、夜になると、ズルゥズルゥと樽の如く太い、長さは何十間もある大蛇の姿になった。人々は恐ろしくて恐ろしくて、その姿をまともに見ることは出来なかった。 その恐ろしさで敵から殿様を守っていたのだが、あまりにその姿が恐ろしかったことから、千曳に社殿を建立しそこに住んでくれるように頼んだ。そのため、千曳神社には蛇の神様がいると云う。
・ボサマと大蛇
七戸に、驚くほど三味線や歌の上手な、盲目のボサマがいた。当時は、結婚式などには頼まれて出向き、歌を歌ったりして賑やかに祝うしきたりがあった。ボサマは、千曳の結婚式に頼まれて出向いたそうだ。とても豪華な結婚式で、夜遅くまで賑やかに祝った。
帰るとき、雪が降り始めたが、この位の雪なら大丈夫だと思い、酒や引出物、大きい魚など食べ物を沢山貰いその家をあとにした。 しかし家を出て間もなく、雪はごそごそと降りはじめ、とうとう道を間違えて山に入ってしまった。雪はさらに猛烈に降り続け、西も東も分からなくなってしまった。
いよいよ歩けなくなり怖くなり、さらに眠くなってきた。 ボサマは、「これは死ぬな。寒くなったし眠れば死ぬだろうし、どうせ死ぬならここで好きな歌でも歌って死ぬか。」と、平原の真ん中で三味線を出して歌った。最期だと思い必死に歌った。
するとボサマのすぐ前でゴソゴソと雪の音がした。何が前にあるのかと思い手を伸ばして触ってみると、この地に住んでいるという噂の大蛇だった。ボサマは汗がジワッと出て、寒かった身体が熱くなった。 ボサマが歌うのを止めると、大蛇はゆっくりと去っていくようだった、ボサマは三味線を持ち、さらに貰った物も持ってその後をついていった。
重い大蛇が移動したおかげで道が出来ている。さらに進むとこの千曳神社に行き当たった。 これは助かったと、神社の戸を開けて中に入り、お酒を神様にお供えをし、お腹が空けば、貰ってきたものを食べ、神様にお礼を言いながら、雪の降る中、神社の中で過ごした。
村の人たちは、吹雪の中、二日も三日も帰って来ないボサマを心配して、雪が小降りになったのを見計らってさがしに来た。しばらく探すと見たことがない道があった。「これはどこへ続く道だろうか」 村の人たちがその道を進んでいくと、この神社に行き当たり、中には楽しそうに三味線を弾いているボサマがいたと云う。