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青森県青森市松原2丁目

2013/04/26取材

棟方志向は明治36年(1903)、十五人兄弟の三男として刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの間に生まれた。家はきわめて貧しかったと言い、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となった。

しかし少年時代から絵を描くことは得意で、友だちは紙を持って来て競って役者絵を描いてもらい、それで凧を作ったという。一ちょうらの着物が墨や絵具で汚れるのも気にせず、無我夢中になって描いたと云う。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指した。志功の身近には忘我の境地に入り霊界の言葉を伝えるイタコや、不動明王を一心に祈る父親の姿など、津軽にはその後の志向の作風に見られる宗教的な雰囲気が漂っていた。

もう一つ志功が子供の頃から愛し親しんだ世界、それはねぶた祭だった。優れたねぶたの絵を描くことが子供の頃の夢だったと云う。また青森市内の善知鳥神社でよくスケッチをしていたといい、それを通じて自然や神々との対話ができるようになっていったのかもしれない。

大正13年(1924)上京、帝展や白日会展などに油絵を出品したが落選が続いた。昭和3年(1928)、第9回帝展で「雑園」が入選、昭和5年(1930)から文化学院で美術教師を務め、昭和7年(1932)に日本版画協会会員となる。

昭和9年(1934)佐藤一英の“大和し美し”を読んで感動、制作のきっかけとなる。

昭和11年(1936)、 国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる。

昭和20年(1945)、疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。昭和29年(1954)まで在住した。志功はこの地の自然をこよなく愛した。

昭和31年(1956)、ヴェネツィア・ビエンナーレに『湧然する女者達々』などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。昭和44年(1969)、青森市から名誉市民賞を授与され、翌年には文化勲章を受章する。

晩年、志向は次のように言っていたと云う。
「私の板画というのは、そうですね、自分から作るというのではなく、板の中に入っているものを出してもらっている。作るというより生まして貰うと言うんでしょうかね。生んで貰いたい、という願いなんですね。そういう一つの自分は、板のもっている生命と言うんですかね、木のもっている生命というものと合体して、自分の思いというものを十分に発揮し、そしてそういう板から受ける大きい生命というものか、力というものをこっちの紙に写して頂くと言うんで、作るというより頂くのが多いというので、板画という字を使うんですがね。」

昭和50年(1975)9月、東京にて永眠。同日付で贈従三位。青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた“静眠碑”と名付けられた墓がある。

貴船神社