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青森県東北町字家ノ下タ

この日本中央の碑は、昭和24年(1949)に、石文集落近くの赤川上流で発見された。この地では、この「日本中央の碑」が、歌枕として頻繁に出てくる「つぼのいしぶみ」であると伝えられている。現在、日本中央の碑保存館の中にこの石碑は保存されている。

古書に、「陸奥のおくにつぼいのいしぶみ有り、日本のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付けたれば石文と云と云り。信家の待従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けり。其所をつぼと云也。…」とあると云う。

この地は「都母(つも)」と呼ばれ、「征夷」の歩みが北へ進む中、「日の本」と呼ばれていた蝦夷の国もまた北へと押し上げられ、この地は当時その中心に位置していた。

17世紀中頃、仙台藩二代藩主伊達忠宗から四代網村の時代にかけて、古典の研究から歌枕の地を領内に結びつけていく動きが高まった。その過程で、多賀城跡の一角で発見された古碑に注目が集まり、水戸光圀も『大日本史』編集の為に碑の調査を行った。さらに17世紀後半には松尾芭蕉がこれを訪ね、『奥の細道』を刊行してからは広く、「多賀城碑=つぼいのいしぶみ」として一般化した。

18世紀中頃には、南部藩でも古典の研究から同様の動きが高まり、本物の「つぼのいしぶみ」は南部藩内に存在すると言われるようになった。江戸中期以降、水戸の地理学者長久保赤水が、南部坪村に「日本中央」と記した石碑があるとしてからは、南部藩壺碑に注目が集まった。

その石碑を多くのものが探し求め、明治天皇の奥羽巡幸の折にも探したが見つからなかった。

昭和24年に発見されたこの碑は、高さ1.5mほどの自然石に「日本中央」と刻まれている。発見後、新聞社や学者が調査を行ったが、「日本中央」という文面の問題、また伝承にある坂上田村麻呂はこの地に到達していないという問題、また文字が重要な碑の割には乱雑であるといった問題などが議論されており、本物の「つぼのいしぶみ」と認定されるには至っていない。

それでも古くから伝承されていた石碑が、伝承通り「都母」の地で発見されたということは、歴史の迷宮へ踏み込むロマンを感じさせるものであることには間違いない。

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