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青森県青森市字浅虫

2013/04/26取材

 

 

 

現在の国道4号線の善知鳥崎にトンネルが通ったのは、明治9年(1876)の明治天皇の行幸の時で、それ以前は海沿い道で、岩場に板や梯をわたし、打ち寄せる波の合間をはかり、恐怖戦慄しつつ通るような小径だった。越後の親不知子不知とともに二大険路といわれた難所だった。

この地は、平泉の郎党の大河兼任が、鎌倉軍に対して最後の防戦地とした古戦場である。

兼任は、安倍貞任の弟正任の末裔とされ、出羽の八郎潟沿岸の大川の豪族で、平泉の藤原泰衡の郎党だったと云う。奥州藤原氏が滅亡した奥州合戦の後、鎌倉政権へ反抗を企て、文治5年(1189)12月、出羽に挙兵した。「吾妻鏡」によると、総勢7000から最大で10000騎に及んだと云う。
男鹿の地頭橘氏の拠点を襲撃し、厳寒の八郎潟の氷上を進軍し、氷がわれ多くの兵を失うなど痛手を負ったが、それでも鎌倉方の由利維平を八郎潟北方の大森山付近で破った。

兼任は勢いに任せて津軽に入り、鎌倉方の宇佐見氏らの御家人を破り、津軽の鎌倉勢を駆逐した。慌てた奥州総奉行葛西清香は、急ぎ鎌倉に注進し助勢を乞うた。

頼朝は、海道大将軍に千葉常胤、山道大将軍に比企能員を任命して追討軍を編成、さらに足利義兼他近国の御家人にも出陣を命じ、続々と征討軍が北上した。

津軽を制した兼任は、平泉の残党の再結集に成功し、一万余の軍勢に膨れ上がっていた。兼任勢は南下を始め、一時は平泉を占拠し、文治6年(1190)2月、栗原一迫で鎌倉方の追討軍と衝突した。

鎌倉方の猛攻に、さしもの兼任も武運つたなく終に敗れ、その後衣川で防戦に努めたが、味方は僅か五百余騎を残すのみとなり、終に北へと敗走した。

兼任は残存兵力を率いてこの近くの山に立て籠もった。しかしすでに兵力は少なく、足利義兼らの急襲を受け破れ、行方をくらました。その後兼任は各地を転々とした後、平泉ゆかりの栗原の栗原寺に入ったが、ここで錦の脛巾を着て金作りの太刀を帯びた姿を地元の樵に怪しまれ、同年3月、斧で斬殺されたという。

首実検は千葉胤正が行い、約3ヶ月に及んだ反乱は終息した。