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青森県三沢市字三沢

2013/04/25取材

三沢海軍航空隊は、昭和17年(1942)陸上攻撃機の実戦部隊として開かれ、最前線で爆撃、攻撃、偵察行動に従事した。木更津飛行場で開隊したが、三沢飛行場には進出せず、木更津で訓練に従事した。

訓練のため太平洋戦争開戦には間に合わず、ミッドウェィ作戦以降の、ハワイ方面への先遣部隊として期待されていた。しかしミッドウェー作戦は失敗し、サイパン島進出が下令され全機進出した。

しかし、連合軍のツラギ島の奇襲で、守備隊と横浜海軍航空隊が玉砕したため、急遽三沢空はラバウルに派遣されることになった。

ラバウルでは、ガダルカナル島空襲、ポートモレスビー空襲、敵輸送船団の爆撃、上陸作戦の支援攻撃などと活躍し、昭和17年11月に「第七〇五海軍航空隊」に改称した。

しかし戦況は、物量を誇るアメリカ軍に次第に押され始め、昭和18年1月にはガダルカナル島撤退作戦が開始され、4月には山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗していた同部隊機がアメリカ軍に撃墜され長官は戦死した。

昭和18年(1943)8月頃より、マーシャル諸島方面への米軍侵入が頻発するようになったため、第七五五海軍航空隊の援護のために、七〇五空はテニアンへの撤退が命じられ、さらにイギリス東洋艦隊の長距離哨戒のためスマトラ島に移った。

しかし、この時期にはすでに南方に展開する各航空部隊は、補充もままならない中での激戦で、再編を繰り返しながら次第に戦力は低下していった。

昭和19年(1944)6月には艦上攻撃機4、戦闘機3になっており、大規模作戦を遂行することはできず、戦力外となって解散した。残存要員はそのままスマトラの基地要員として終戦まで自活した。結局、初代の三沢航空隊は、一度も三沢飛行場に進出する機会がないままスマトラで解隊した。

昭和19年(1944)7月にはサイパン島陥落により、サイパン島、グアム島、テニアン島にはB29爆撃機の基地がアメリカ軍により設営され、11月には東京に対する空襲が開始された。

帝國海軍は、B29によるこれ以上の被害を防ぐため、一式陸上攻撃機に陸戦隊員を乗せ、サイパン島に強行着陸させ、B29を破壊する大規模な空挺攻撃を立案した。作戦は、アメリカのノドもとを貫く意味で「剣号作戦」と命名され、その準備のため、呉鎮守府第一〇一特別陸戦隊(山岡大二海軍少佐指揮 350名)が三沢飛行場に移動することになった。輸送機として、一式陸上攻撃機30機が三沢に集められ、300名の搭乗員も、陸戦隊員とともにサイパン島に着陸後、死ぬまで戦う特攻作戦だった。

山岡部隊隊員は、米軍に似せた迷彩服と靴を作り、全員が長髪、英語教習まで実施し、7月24日前後に予定された作戦決行日に向け、夜間の長距離歩行訓練に励んでいた。しかし、昭和20年7月14日、ハルゼー第3艦隊艦載機による奇襲爆撃を受け、三沢基地は分散退避中の陸攻の大半を失ってしまった。

しかし、海軍軍令部は、作戦を延期し、全国から飛行可能な一式陸攻を総動員し、さらに第二剣作戦部隊を編成し、陸軍第一挺身団300名を千歳基地に、強行着陸前の銃爆撃襲撃のために、松島基地に特別改造を行った陸上爆撃機銀河70機を集め、作戦を巨大化させた。

広島に原爆が投下された8月6日、高松宮、海軍第三航空艦隊司令寺岡謹平中将など海軍首脳が三沢飛行場に入り剣烈綜合演習が実施された。演習では、低空で飛来する銀河の爆音に包まれ、それがすむと、低空飛行の陸攻が次々に着陸、飛行機から降りた陸戦隊員は折畳み自転車に乗って、滑走路上に置かれた実物大B29の模型に吸着爆弾を取り付け破壊していった。作戦の中には、テニアン島からアメリカの原爆搭載機を強奪して持ち帰ることも含まれていたとされる。

作戦は、8月19日前後の出撃が予定されたが、8月9日、三沢飛行場は再びアメリカ軍の空襲を受け、一式陸攻のほとんどを失い、作戦は決行できずに終わった。

三沢では他に、様々な特攻作戦が練られていたようで、土浦海軍航空隊よりの予科練生を中心とし、アメリカ本土へ潜水艦で潜入し攪乱する部隊や、合板で作ったボートでの体当たり部隊などの特攻の訓練が行われたようだ。

終戦後の昭和20年(1945)、三沢には米陸軍航空隊の施設部隊が移駐し、米陸軍航空隊のための飛行場として建設工事が行われた。昭和33年(1958)には、自衛隊の北部航空方面隊司令部が発足し、基地の共同使用が開始され、昭和36年(1961)に北部航空警戒管制団が配備され、アメリカ軍から航空警戒管制権を引き継いだ。

現在もアメリカ空軍の戦闘機部隊が駐留しており、主に、ロシアや北朝鮮への備えを行っているため、「北の槍」と呼称することもある。また軍民共用で、三沢空港が隣接し、同じ滑走路を使用している。

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