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青森県五所川原市金木町…芦野公園内

2012/05/15取材

 

津軽三味線の原型は、新潟地方の瞽女(ごぜ)の三味線と云われる。また北前船によって日本海側各地の音楽が津軽に伝わり、津軽民謡は独特の発達をみた。津軽においては、「ボサマ」と言われる盲目の男性らの門付け芸として蔑まれながらも広まっていった。

安政4年(1857)、この金木の神原に仁太坊が生まれ、8歳の時に天然痘で失明し、15歳の時に芸人となった。仁太坊の三味線は、弾けば弾くほど激情にかられ、我を忘れ三味線に取り付かれたように弾いた。太棹の一の糸も切れよとばかりに叩き、撥音は唸りを上げ、見えない眼で天を睨み、自虐的な唄をしゃがれ声で唄う姿はまさに鬼神のごとくだった。

この仁太坊の三味線は津軽一円に知れ渡り、多くの盲目の少年達が弟子入りをした。仁太坊に育てられた有名無名のボサマ達が、やがて津軽三味線の基礎を築いていった。

祭りがあれば、その神社の境内にはずらりとボサマ達が並び、互いの腕を競い合うかのように三味線を演奏した。津軽三味線草創期には、他のボサマより目立つために、より大きな音、派手な技を追求し、叩きつけるような弾きかたと早弾きにより、他の地域の三味線音楽とは全く異質なものになっていった。

この坊様の門付け三味線から津軽三味線の成立過程において、多大な功績を残したのは仁太坊門下の四天王だった。南津軽の善之坊、長泥の長作坊、嘉瀬の桃太郎、不動林の白川軍八郎である。

昭和40年代の民謡ブームで、津軽三味線は一世を風靡し、三味線はそれまでは単なる伴奏楽器としてあったものが、次第に脇役から主役へと転じていった。現代では独奏楽器として若手奏者が独奏主体の演奏スタイルを確立している。

現在は、津軽三味線の愛好家は全国に広がり、この芦野公園では毎年桜祭りの時期に全国大会が開かれている。