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十和田市大字赤沼字下平

2013/10/08取材

奥入瀬川左岸の、比高約30mに築かれた平山城で、南、西側は奥入瀬川に面した断崖に守られている。規模は東西約250m、南北約200mほどで、南西側に土塁と堀が残っているとされる。

築城時期、築城主ともに不明であるが、天文年間の(1532~55)の館主は、三戸南部氏の被官赤沼氏と伝えられる。赤沼氏は、この地の在地領主だったものが、この地に南部氏が下向した早い時期に、三戸南部氏に臣従したものと思われる。

赤沼備中守は、所領を接する奥瀬安芸守との所領争いで敗訴し、このときの仕置きに不満を持ち、当時の三戸南部氏の本居城の聖寿寺館で奥瀬安芸を殺害し、聖寿寺館に火を放ったと伝えられる。備中守は逃亡したが下斗米昌家に討ち取られ、赤沼氏の所領は奥瀬氏に与えられ、赤沼館はこのとき破却されたと思われる。

聖寿寺館焼き討ち事件については不可解な点も多く、晴政と、後に南部宗家を継いだ信直の父の高信との後継争いがあったとする説もある。

この南部宗家の本居城が焼き討ちにあったことで、南部氏は三戸城を築き本居城を移した。