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青森県十和田市

2013/10/08取材


稲生川は、新渡戸傳(つとう)とその長男の十次郎が、三本木原台地の開拓を行うために、十和田湖から水を引いた疎水である。

現在の十和田市は、かつては三本木原と呼ばれ、厚く積もった火山灰土壌の扇状地帯で、古くから荒漠とした平原だった。この地を流れる川は、台地の下の低地を流れ、火山灰土は雨を溜めることができず、地面は乾き、井戸を掘っても水が湧かない地だった。草木も生えることがかなわず、わずかに遠方からも良く見える根元から三本にわかれた「白たも」の木があり、人々はこの大木を三本木と呼び、いつの頃からかこの地方を三本木と呼ぶようになった。

夏は暑い日差しをさえぎる樹木がほとんど無く、太平洋からは「やませ」が吹き冷害を起こし、冬は「八甲田おろし」のため吹雪になることが多く、この平原で凍死する者も多かった。

もともと南部領は寒冷な気候のために、米は多くは採れなかったが、三本木はわずかな低地と、湧水地の周辺だけで米が作られていただけで、一家族あたり一人分の米しか採れず、村人が白米を食べることはほとんできなかった。さらに3年に1度ほどは凶作となり、元禄、宝暦、天明、天保の飢饉は最もひどく「南部藩四大飢饉」といわれ、天明3年(1783)の大飢饉後には、当時三本木村に52軒あった家がわずか26軒に減ってしまったほどだった。

傳は、領内の開墾に尽力し、南部領の4郡21ヶ村で開拓を成功させ、それらの功により嘉永元年(1848)には勘定奉行となった。南部藩内では開拓の専門家と目されるようになっていた。

当時、南部藩は沿岸警備や蝦夷地警備などで財政が逼迫し、安政元年(1854)には「十ヶ年士の制」を施行した。これは主に下級武士からその身分と家禄をとりあげ、10年内に新田開発を行い成功した者に、開墾した分を家禄として与えられると言うものだった。

その対象となった者達は、新渡戸傳のもとに助言を求め集まり、傳は、それらの人々や志を同じくする商人などと協力する形で、かねてから計画していた三本木原の大規模開拓を実行にうつす事を決意した。安政2年(1855)、傳は開拓願いを藩に提出し、三本木新田御用掛となり工事に着手した。傳62歳だった。

三本木原周辺では、台地の20~30mの低いところを川が流れており、台地に水を引くには、奥入瀬川のはるか上流に取水口を設ける必要があった。傳は、三本木原に水を引き、太平洋岸まで達する新しい川を作り、広い台地上で大規模に開拓を行おうと考えた。しかしそのためには山を穿ち数箇所の穴堰をほり、また低地を通すために片堤の水路を造らなければならなかった。

安政2年(1855)9月に工事に着手、鞍出山穴堰2540m、天狗山穴堰1620mの穴堰を掘り、約7.2kmの陸堰を掘りぬいた。途中、傳は江渡詰めとなったため、その事業は嫡男の十次郎が引き継ぎ、安政6年(1859)5月、約4年の歳月をかけて三本木原への上水に成功した。翌年この川は、南部盛岡藩主南部利剛により「稲生川」と命名された。

上水成功の翌年の万延元年(1860)、初めて作付けが行われ、その年の秋に米45俵を収穫した。その5年後の慶応元年(1865)の新田検地では、開田は300町歩、930石余の石高をあげた。その後、十次郎の立てた第二次上水計画により、太平洋までの多くの支流に水を供給する予定だったが、十次郎は47歳で病没し、工事中止となり、また戊辰戦争後の混乱で未完に終わり、昭和41年(1966)の国営開墾によって成しとげられた。