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青森県十和田市東三番町

 

太素塚は、現在の十和田市を中心とした三本木原の開拓に情熱を注いだ、新渡戸傳(つとう)の墓である。傳は、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造の祖父にあたり、晩年に太素と号した。

傳は、盛岡南部藩の家老職をも務めた家に生まれ、文武に秀で、その将来を嘱望されていた。しかし27歳の時、父が讒訴を受け、当時は南部領の辺地だった下北の川内に放逐され、自身は咎を受けてはいなかったが父に従い下北へ同行した。

新渡戸家は困窮し、傳は武士を捨てて商人となり、苦労の末に恐山山地のヒバ材を扱い、野辺地の港から京や江戸へ出荷する材木商として成長し、文政年間の江戸の大火で莫大な収益を上げ、有数の大商人となった。

傳が44歳の時、沿岸防備や、蝦夷地派兵で財政難に陥っていた盛岡藩は、傳に藩への帰参を命じ、以降傳は、その経験を活かし、御山奉行、御勘定奉行と引き立てられ、帰参後、傳は沼宮内、花巻周辺と次々に新田開発を行った。

安政の時代に入り、世情は尊皇攘夷の嵐が吹き荒れていた。そのような中の安政2年(1855)、62歳の時に新渡戸傳は三本木原台地の新田開発を藩に願い出た。

三本木台地は火山灰が厚く降り積もり、草木も生えることがかなわず、わずかに3本のタモノキが生えていたことから三本木と称されていたような地だった。さらに打ち続く飢饉により、この地はまさに死の荒野だった。

傳は、商人時代に十和田から八戸まで、切り出した木材を運搬するために、河川改修を行うなどの経験があり、その当時から三本木台地の構想を得ていたのかもしれない。

傳は、長男の十次郎とともに、はるか上流で奥入瀬川を分岐し、岩を穿ち堰を造り、5年後には台地に十和田湖の水を通した。また、行政官として町づくりを行い、この地の産業振興に努めた。

明治2年(1869)、傳が76歳の時に七戸藩大参事となり、2年前に47歳で病没した長男の十次郎に代わり、孫で稲造の兄の七郎とともに、この地方の畜産振興、農地の整備、商業基盤整備、民間資本の育成と導入、さらには観光施策まで、これまでの日本にない新しい町造りを進めて行った。

明治4年(1871)7月、新政府から廃藩置県が発布され七戸藩は消滅し青森県となった。傳はそのぎりぎりまで働き、同年9月、78歳の生涯を終えた。

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