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青森県十和田市東三番町

 

現在の十和田市は、かつては三本木原と呼ばれ、火山灰土壌の扇状地帯で、古くから荒漠とした平原だった。国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造の祖父の。新渡戸傳(つとう)の代からこの地の本格的な開拓を始め、現在の十和田市の基を築き、この記念館は、その新渡戸氏三代を顕彰するための記念館である。

新渡戸氏は、その系譜は千葉氏の流れで、文治5年(1189)、奥州藤原泰衡征伐の際、下野の新渡戸において、泰衡の刺客の遠田三郎を千葉常秀が誅し、その功により源頼朝より、下野の新渡戸など三郷を賜わり、新渡戸を名乗ったと云う。

応仁の乱の頃、新渡戸氏は奥州本吉へ移り、高原城主として奥州探題大崎氏の麾下として活躍した。その後、大崎氏も葛西氏も滅亡した後の慶長3年(1598)、新渡戸内膳正春治は南部利直に謁し臣従し、以来花巻の安野村に居住した。その後、和賀、稗貫一揆などの戦で功を立て、慶長15年(1610)、藤根村に200石を領し、その後も功を重ね500石を得て、後には盛岡藩の家老職も務める家柄になった。

新渡戸傳の父、維民(これたみ)は、花巻から盛岡まで歩いて登城するという気骨の人物だったが、讒訴を受け、下北の川内に放逐された。傳はこのとき27歳で、文武に秀で、これからを嘱望されており、第一子で後の新渡戸十次郎が生まれたばかりだった。傳は、自身は咎を受けてはいなかったが、父と行動をともにし、当時は全くの辺地だった川内へ同行した。

収入が途絶した新渡戸家は困窮し、傳は父子三代を養うために商人として生きることを決意し、海岸に漂着する海藻を拾って売ったり古布を商ったり、やがて日用品を商うようになった。さらに恐山山地の豊富な森林資源に着目し、高級建材のヒバを伐りだし、野辺地の港から京や江戸へ出荷する材木商として成長し、文政年間の江戸の大火では、莫大な収益を上げ、有数の大商人となった。

父維民が名誉を回復し花巻に戻っても傳は商人を続け、斬新な発想と旺盛な好奇心で、次々と新しい知識と技術を身につけていった。特に土木、治水の技術を吸収し、現場で検証した。そして十和田湖から奥入瀬川を使って、八戸までの約70kmを材木を流し運搬する事業には、様々な河川改修の技術が用いられた。

沿岸防備や、蝦夷地派兵で財政難に陥っていた盛岡藩は、傳が44歳の年、藩に帰参を命じた。以降傳は、御山奉行、御勘定奉行と引き立てられ、開拓人生が始まった。帰参後、傳は沼宮内、花巻周辺と次々に新田開発を行った。

安政の時代に入り、ペリーが来航し、国学の発達と海外の圧力で尊皇攘夷の嵐が吹き荒れていた。そのような中の安政2年(1855)、62歳の時に新渡戸傳は三本木原台地の新田開発を願い出る。

10世紀の十和田火山の大噴火などで、三本木台地は火山灰が厚く降り積もり、雨を溜めることができず、地面は乾き、井戸を掘っても水が湧かない地だった。草木も生えることがかなわず、わずかに3本のタモノキが生えていたことから三本木と称されていたような地だった。さらに打ち続く飢饉により、この地はまさに死の荒野だった。

傳は、はるか上流で奥入瀬川を分岐し、岩を穿ち堰を造り、5年後には台地に水を通した。途中から、長男の十次郎が現場を引き継ぎ、傳は行政官として町づくりを行った。疏水が通ったとき、当時の藩主南部利剛は、この疎水を「稲生川」と名付けた。

広大な魔境が、命の栄える土地へと変わった。投資した者、労役に功のあった者たちに土地を分け与え、引き続き十次郎が開発に当たった。

しかし時代は戊辰戦争の時代となり、盛岡南部藩と七戸藩は奥羽越列藩同盟として戦い朝敵となった。傳は新政府に働きかけ、明治2年(1869)、前藩主南部信民の名誉回復をとげ、南部信方を知藩事に据え、自身は七戸藩大参事となり、七戸代官所に藩庁を置き、三本木陣屋とした。

この時、傳はすでに76歳で、長男の十次郎は2年前に47歳で病没していた。しかし傳は、孫の七郎とともに、この地方の畜産振興、農地の整備、商業基盤整備、民間資本の育成と導入、さらには観光施策まで、これまでの日本にない新しい町造りを進めて行った。

明治3年(1870)、七戸藩領全38ヶ村総一揆が起きた。この地は冷涼であり稲作には適さず、かわりに大豆をよく産した。傳は農民からその大豆を買い上げさせ、大阪で売り捌き換金し農民に還元していた。しかしこの地方はこれまでにない大凶作に見舞われ、困窮しきった農民の間に、七戸藩が大豆の売り上げをごまかしているというデマが広がった。

農民や漁民、一部の郷士までもが加わり、数百人が七戸城下に押し寄せ、税の減免や大豆の買上割合の引き下げ等を要求し、その要望の中に、「新渡戸傳頂戴願」とあった。最高責任者の傳の命を要求するものだった。傳は、「この傳に非があるというなら、その非道の明細を提出し、それを天皇陛下に届け出て罷免していただく」という旨の回答をした。

そしてこう言ったという「自分の首をどうするのか、一人なれば玩弄物とすることもできるが、多人数で焼きて食するか、煮て食するか」と大笑したと云う。この後傳は、東京、盛岡と何度も往復し、新政府とぎりぎりの折衝をし、豪商を口説き落とし、民を救ったと云う。

明治4年(1871)7月、新政府から廃藩置県が発布され七戸藩は消滅し青森県となった。傳はそのぎりぎりまで働き、同年9月、78歳で開拓魂を閉じた。

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