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青森県むつ市蛎崎

2012/07/10取材

建武元年(1334)、南部師行の将の武田修理信義は、この地の目代として蛎崎に城を築き拠点とした。この八幡宮はそのときに勧請されたものと思われる。

武田氏はその後、蛎崎を名乗り、この地で勢力を増し、文安5年(1448)、当時の蛎崎城主の蛎崎五郎信純は、南部氏に反旗を翻しこの宇曽利郷一帯を支配するようになった。信純は、享徳2年(1453)には上洛し、足利将軍に拝謁し太刀を拝領し、八幡宮に奉納したと云う。

しかし、康生3年(1457)、八戸の南部政経は蛎崎氏討伐の兵を起こし、この地に攻め込み蛎崎城を落とし、この八幡社で勝鬨をあげたと云う。その後、元亀元年(1570)、改めて南部氏がこの地の鎮守として勧請し現在に至る。

この戦いの際に、蛎崎氏の息女の松子姫が自害し、この近くにその墓標として杉の木が植えられ、「姫小杉」と呼ばれていた。しかし明治末に伐採され売却されてしまった。その後、伐採売却した者は樹霊の祟りで病没したと云う。