青森県むつ市大湊町

2012/07/10取材

 

現在、海上自衛隊大湊地方隊のある地には、かつて海軍大湊警備府があった。この地は、海軍条例の中の第五海軍区となり、その範囲は「北海道陸奥ノ海岸海面及津軽海峡」と決められていた。日露戦争においてその重要度は高まり、明治38年(1905)大湊要港部となり、日米開戦が迫る中、昭和16年(1941)11月、それまでの大湊要港部は大湊警備府に昇格した。

太平洋戦争中は、千島方面の防備強化のため、第5艦隊、第1水雷戦隊などが配置された。しかし戦局は悪化し、昭和20年(1945)8月の大湊空襲により大きな被害を受け終戦を迎えた。

この大湊警備府が関わった特筆すべき作戦にキスカ島撤退作戦がある。

昭和17年(1942)、日本はアッツ島を占領したが、昭和18年(1943)5月、アメリカ軍はアッツ島を攻撃し、島の日本軍守備隊は必死の抵抗を続けたが、最後はバンザイ突撃により玉砕した。これにより、キスカ島にいる守備隊、陸海軍あわせて6,000名余は完全に孤立してしまった。

大本営ではアリューシャン列島からの撤退が決定され、キスカ島守備隊の撤退作戦が練られた。本来は、駆逐艦などの高速、軽艦艇により夜陰に乗じて撤退を行うのが最も効率のよい方法であったが、この当時はすでにソロモン海戦などで多くの駆逐艦を失っており、そのため潜水艦15隻による守備隊の撤退作戦が実行された。

しかしレーダーを始めとする米軍の哨戒網は厳重であり、この作戦による損害も大きく、そのため水上艦艇による撤退作戦に切り替えられることになった。しかし、制海権、制空権をアメリカに握られている中での正面突破は不可能であり、この地方特有の濃霧に紛れて高速でキスカ湾に突入、素早く守備隊を収容した後に離脱を図るという計画が立てられた。

しかしこれは、濃霧が発生しなければ上空援護のない撤退部隊はアメリカ軍の爆撃を受けて全滅する恐れもあった。また8月になれば、この方面の霧は晴れ始め、アメリカ軍の上陸作戦が確実に行われると予想され、更にこの地域に備蓄していた重油は二度の出撃分しかなかった。そのような中で作戦は発動された。

7月7日、水上部隊が出撃したが、十分な霧の発生がなく一旦帰投し、濃霧が発生するのを待ち、7月22日、「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を得、撤収部隊はその日の夜再出撃した。このときは、第5艦隊司令長官以下第5艦隊司令部が「多摩」に座乗し出撃するという背水の陣の構えだった。

7月29日が濃霧の可能性大との予報があり、気象観測の潜水艦各艦及びキスカ島守備隊からの通報も同様のものであったため、木村司令官は突入を決意、第5艦隊司令部へ「本日ノ天佑我ニアリト信ズ」と打電しキスカ撤退作戦は始まった。

艦隊は、敵艦隊との遭遇を避けるために直接突入せずに、キスカ湾を西側から迂回して島影に沿いつつ、7月29日午後0時に艦隊はキスカ湾に突入した。濃霧の中だったため、突入時に旗艦「阿武隈」が敵艦隊と誤認し軍艦に似た形の島に魚雷を発射するなどしたが、それでも濃霧の中座礁することもなく突入に成功した。

艦隊はただちに、待ち構えていたキスカ島守備隊員約5,200名をわずか55分で収容、使用した大発は回収せずに自沈させ、ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱した。艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵に全艦無事帰投、ここに戦史史上極めて稀な無傷での撤退作戦が完了した。

その後の8月15日、アメリカ軍は艦艇100隻余りを動員、艦砲射撃を行った後で、濃霧の中兵力約34,000名が一斉に上陸を開始し、極度に緊張した状態の中で各所で同士討ちが発生、死者約100名を出した。また、日本軍軍医が悪戯で『ペスト患者収容所』と書いた立て看板を兵舎前に残してきており、これを見たアメリカ軍は一時パニック状態に陥り、緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注したと云う。

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