小川右岸の丘陵の東端部を堀切によって切り離し築かれており、周囲を土塁で囲んだ単郭式の城館だったと思われる。城の規模は東西約130m、南北約150mほどで、江戸時代には盛岡南部藩の田名部代官所が置かれ、現在は代官山公園となっている。

築城時期、築城主は定かではないが、南北朝期以前は、この地は安東氏一族が支配していたが、宇曾利郷の順法寺城主安東元親は新井常安の謀反により殺され宇曾利安東氏は滅亡した。(1334)頃、陸奥国代の八戸根城の南部師行はこれを討伐し、武田修理と赤星五郎を宇曾利郷の目代に命じて管理させた。この時、赤星五郎は田名部に館を築き居城としたと云う。

元弘4年(1348、建武元年)、南朝方だった南部信政は、護良親王の遺児の良尹王を招き、その庇護の下、宇曾利郷の順法寺城を修繕し居城とし北部王家を立てた。この時、赤星氏と武田氏は共に良尹王の与力となった。

文安5年(1448)、当時の順法寺城主の新田義純(義純王)は、家臣の蛎崎(武田)蔵人に招かれた船の上での宴で溺死し北部王家は滅亡し、このとき田名部館も蛎崎勢の攻撃を受けて落城したと伝えられる。この事件以降、南部氏と蛎崎氏は争うようになりこれは「蛎崎蔵人の乱」と呼ばれることになる。

当初南部氏は、諸所の事情で兵を動かすことが出来ず、蛎崎勢とそれに味方する安東勢は七戸まで攻め込んだ。康生元年(1455)、南部政経はようやく準備を整え反撃に転じ七戸城を奪還し、康生3年(1457)、海上からの奇襲攻撃で蠣崎城の背後を突き攻め落とした。

これにより宇曾利郷は八戸南部氏の直轄領となり、南部政経の命で新田盛政が田名部館に入った。その後、戦国期にかけて、南部氏の惣領権は三戸南部氏に移り、九州菊池一族の菊池正義が戦乱を逃れ、南部氏の庇護を受け永禄年中(1558~70)に順法寺城に入ったが、二代正興のとき田名部館を改修して入り、南部利直に仕え、田名部通りを支配した。その後、南部藩による田名部代官所となり明治維新を迎えた。

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