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青森県むつ市新町…円通寺

2012/07/10取材

この円通寺は、斗南藩の藩庁となり、松平容保と藩主となった容大(かたはる)の居館ともなった。

会津戦争に敗れた会津藩は、藩主松平容保と家臣は東京や越後高田で謹慎の身となった。明治2年(1869)、版籍奉還が行われる中、会津松平家は再興を許され、同年11月に、松平容保の嫡男容大に家名存続が許され、翌年の明治3年(1870)1月に、旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれて斗南(となみ)藩が成立した。

「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったものとされる。戊辰戦争では朝敵とされたものの、京都守護職として孝明天皇から大きな信頼を寄せられ、勤皇の思いは事のほか強かった、その思いが込められているのだろう。

会津藩を没収された会津松平家は、元南部藩領の北郡、三戸郡、二戸郡内に3万石を与えられた。同年4月、第一陣300名が八戸に上陸した。当時2歳の藩主松平容大は、藩士の懐に抱かれて、最初の藩庁の五戸代官所に入った。その後藩庁は、このむつ市田名部の円通寺に移り、旧藩士と家族1万5千人余りが移住した。

しかしそこは表高3万石ではあったが実高は7千石にすぎず、火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。森林は豊富であったが、それを有効活用するまでには至らなかった。

斗南藩大参事山川浩、少参事広沢安任、永岡久茂らは、斗南ヶ丘市街地を建設し、原野の開墾を進め、斗南日新館による教育と人材育成に務めた。しかし慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず、飢えと寒さで病死者が続出、脱落する者も多かった。

明治4年(1871)、斗南藩は廃藩置県により斗南県となったが、経済的な困窮で維持は難しく、斗南県少参事広沢安任らによる明治政府への建言により、弘前県などとの合併を経て青森県と岩手県に編入された。

廃藩置県による旧藩主の上京により、心の拠り所を失った藩士らの送籍、離散が相次ぎ、多くの者が会津に帰郷した。それでもこの地に留まった者もあり、広沢安任は明治5年(1872)に日本初の民間洋式牧場を開設したほか、入植先の戸長や町村長や教員となった者も多く出た。

円通寺には松平容大が愛玩したという布袋像などが保存され、また境内にはこの地に残った会津人の手により、明治33年(1900)、容大が揮毫した会津藩士の招魂碑が建てられた。