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青森県黒石市字内町

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別名:烏城

黒石陣屋は、弘前藩から分知した交代寄合旗本黒石津軽家(5千石)の陣屋である。城壁が黒かったことから、烏城とも呼ばれた。

黒石陣屋は南側の浅瀬石川、宇和堰を天然の堀と見立て、他の三方は空掘で囲んだ段丘上の単郭の平城である。南側には蝦夷館と呼ばれる独立した郭があり、有事の時には防御の要として置かれたものと考えられる。

陣屋には大手門と西門の2つの枡形門があり敷地内には藩庁や藩主御殿、台所、御蔵、焔廠蔵、太鼓櫓、津軽信英御廟、馬場などが配置されていた。

現在は市民文化会館や中央スポーツ館となり、馬場跡が黒石公園(御幸公園)として整備されている。蝦夷館周辺は当時の姿をよく留めており空掘や土塁の遺構も残っている。又、津軽信英御廟前に建立された廟門が唯一の遺構として黒石神社に移されている。

黒石陣屋は、明暦2年(1656)、津軽信義の跡を幼い信政が継ぐ際に、伯父である信英がそれを補佐することで、弘前藩から5千石が分知され、黒石領の陣屋として築かれた。

信英は、弘前藩二代藩主の津軽信牧と正室満天姫との間に生まれた(異説あり)が、信牧には石田三成の娘の辰姫との間に信義がおり、三代藩主は信義が継いだ。明暦元年(1655)、津軽信義が亡くなりその子信政が四代藩主を継ぎ信英がこれを補佐した。

信英の生母の満天姫は、徳川家康の養女として津軽藩に輿入れしており、信英の黒石への分知にはそのような事情が関わっていたと考えられる。当初は交代寄合旗本だったが、文化6年(1809)、八代領主津軽親足の時に加増され1万石となり、大名として諸侯に列し、改めて黒石藩を立藩し陣屋内には藩庁が設置された。

十一代の承叙の時に明治維新を迎え、明治4年(1871)7月に廃藩置県で黒石県が成立したが9月には弘前県へ吸収合併となり、その後廃城となった。

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