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青森県黒石市字市ノ町

震災前取材

黒石神社の創建は、寛文2年(1662)、黒石津軽家の祖とされる津軽信英(のぶふさ)が弘前城で死去し、黒石陣屋東南の隅に廟を建立して埋葬したのが始まりと伝えられている。明治に入り黒石陣屋が廃されると、旧家臣達は藩祖の遺徳を偲び、明治12年(1879)に社殿を建立した。

現在の神社境内の門は、黒石陣屋の大手門近くにあった廟門を移築したもので、陣屋の唯一の遺構となっている。神社には社宝も多く、御神刀と呼ばれる金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵が青森県重宝に指定されている他、藩祖信英書状、御神刀太刀、などが黒石市指定文化財に指定されている。

津軽十郎左衛門信英は、元和6年(1620)10月、江戸で弘前藩二代藩主信枚と正室満天姫の間に生まれた(異説あり)。藩祖津軽為信の孫に当たる。

生母の満天姫は、松平一族の出で、福島正則の養嗣子正之の正室だった。しかし徳川家と福島家の確執の中で、正之の子を身ごもったまま離別し、家康の養女として津軽信牧に輿入れした。しかしこのとき、信牧は石田三成の娘の辰姫をすでに正室として迎えていた。

津軽家は、津軽独立のために豊臣秀吉にとりなしてくれた石田三成との関係は強く、関ヶ原の戦いでは東軍として戦ったが、戦後辰姫をかくまい、その後、関ヶ原の恩賞としてそれを黙認されたという。満天姫を迎えるために、信牧はやむを得ず、辰姫を飛地の上州に側室としておいた。

信牧と辰姫の間には、信英が生まれる前年に信義が生まれた。辰姫は若くして没し、このため信義は満天姫のもとで信英とともに養育され、信牧はこの信義を跡継ぎとした。

満天姫と福島正之との間の子は、津軽藩の重臣の大道寺家に養子に出されており大道寺直秀を名乗っていたが、満天姫の津軽家を危うくするとの諌めを聞かず、福島家再興に奔走し、満天姫により毒殺されたとも伝えられる。

信英は、幼少より文武に励み、特に当代第一流の軍学者山鹿素行の高弟として兵学を、その他武術、文学を各師に学び、他に遊戯諸芸をも学び、温良慈仁な人となりだったと云う。幕府の小姓組番士として出仕し、のち江戸西丸書院番、駿府在番などを勤めた。

正保4年(1647)、一門や家臣ら多数が、信英を藩主として擁立する「正保の変」が起き、藩内では多数の処罰者を出した。しかし信義は信英を信頼していたようで、あるいは幕府旗本であったからか、一切の咎はなかった。

明暦元年(1655)、津軽三代藩主信義が死去するとその跡はその子の信政が継いだ。しかし信政は幼かったため、幕府は、信英を補佐とし、5千石を分知することを条件とし信政の後継を認めた。

寛文元年(1661)に弘前藩主信政は16歳になり、初めて国許入りした。しかし翌寛文2年(1662)2月、国許に帰り黒石自領を巡察した信英は病に倒れ、弘前城へ移され治療を受けたが快方へは向かわず、9月、42歳で死去した。葬儀は儒教式で執り行われ、遺骸は陣屋の一角に霊屋を建てて祀られた。