青森県五所川原市金木町

2012/05/15取材

 

斜陽館は、小説家太宰治の生家であり、現在は太宰の文学記念館になっている。また、近代和風住宅の代表例として、平成16年(2004)、国の重要文化財に指定されている。

建物は、木造2階建てで、青森県産のヒバをふんだんに使用している。階下11室278坪、2階8室116坪、宅地約680坪の大地主の豪邸である。外観は和風で、間取りも津軽地方の町屋の間取りだが、内部には洋風の旧銀行店舗部分や階段室、応接間等があり、和洋折衷建築となっている。

建物は明治40年(1907)に、太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって建てられた。太宰治は中学進学に伴い大正12年(1923)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。津島家は兄の文治が継ぎ、太宰は東京大学文学部に進んだが、共産党の非合法活動に協力したり、また太宰がカフェの女給と心中未遂事件を起こし自殺幇助容疑で逮捕されるなどしたため、津島家からは勘当された。

津島家は大地主であり、太宰は自身の裕福な生活にも嫌悪感を持ち、自らの階級に悩んでいた。自ずからの「身分」に対しても、この父の建てた「斜陽館」に対しても、そのネガティブな見方を「苦悩の年鑑」のなかで述べている。

 「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。……私の家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。ひとりの芸術家もいない。役人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのものであった。父は代議士にいちど、貴族院にも出たが、……この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。……おそろしく頑丈なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣も無い。」

  津島家を継いだ文治は、金木町の町長を務め、県会議員として活躍し、昭和12年(1937)国政に進出し当選したが、選挙違反で逮捕され、公民権が10年間停止された。以後文治は、日本が太平洋戦争にのめり込んでいく中、この屋敷の書斎に籠る日々が続いた。

このような中で太宰治への勘当が許され、昭和20年(1945)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れてこの地に疎開した。この地で、兄の文治夫婦たちとピクニックに出て、昔の思い出話に花を咲かせたと云うが、一度捨てた故郷での暮らしは心を和ませるものだけではなかったようで、小説「津軽」の中では、

「このとき兄と一緒に歩くのは10年以上ぶりのことで、この先はもう無いだろう」

と言っている。

太宰治は、昭和23年(1948)、結局愛人と一緒に自殺、その死後、戦後の農地開放などの影響もあったのだろう、津島家はこの家を売却した。町内の旅館経営者が太宰治文学記念館を併設した旅館として改装、太宰の小説「斜陽」から「斜陽館」と命名され営業されていたが、平成10年(1998)からは、町営の文学記念館となった。

津島文治は、戦後青森県知事、国会議員と政治家としての道を進んだが。弟の自殺後、太宰の名声が高まり文豪に加えられていく世間の状況には困惑していたと云う。

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