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青森県七戸町後川原

2013/04/27取材

瑞龍寺に隣接する高台には、南部家御霊屋と呼ばれる霊域があり、南部直時と、幕末期の領主の南部信民らの墓がある。

七戸は、かつては南部一族の七戸家国が治めていた。しかし家国は、九戸政実の乱では九戸方に付き、奥州仕置軍により攻められ七戸氏は滅亡した。

七戸は、一時的に南部藩主南部信直の直轄地となったが、その後、信直の弟である直勝が領主となり、(1593)には、その長男の直時が正式に七戸領主となり、七戸隼人正直時と称し、50年の長きにわたりこの地を治めた。正保4年(1647)、73歳で没した。

直時の死後は、南部二十七代利直の五男の重信が後を継ぎ、18年間この地を治め、(1664)に、南部藩二十九代盛岡藩主となり盛岡に移った。その後、七戸地方は南部藩の直轄地となり代官所により治められた。

南部信民は、文久2年(1860)、七戸の城主格として七戸城を修繕し七戸に入った。戊辰戦争においては、南部盛岡藩と行動を共にし、奥羽越列藩同盟に参加した。新政府軍側になった弘前藩と戦うなど活躍したが、列藩同盟方は敗れ、信民は隠居を命じられた。

その後は、漢学と英学の教授を招き子弟の教育を行い、また、牧畜や養蚕を奨励し、救荒対策として馬鈴薯の作付を奨励するなど、この地に功績を残した。明治33年(1900)没した。