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山形県山辺町山辺

震災前取材

 

古絵図によると、西部の出羽丘陵から村山盆地に突き出た丘陵部の舌端部に、東西40間、南北56間の主郭をおき、その周辺に副郭を置いた輪郭式の平山城だった。

山野辺城は、前九年の戦乱時に、山辺氏が領有、築城したという。室町時代になると、山野辺氏の活躍が伊達家の記録などの古文書に見られ、軍記物語にも最上氏配下の武将として登場し大きな働きをしている。永正11年(1514)、山野辺刑部は置賜の伊達稙宗が山形の最上氏を攻めた時、最上軍先遣隊として長谷堂に出陣し戦死した。

その後は日野備中が城主となったが慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの折の出羽合戦で、直江兼続率いる上杉軍の猛攻にあって山野辺城は落城した。

慶長6年(1601)、最上義光の四男の山野辺義忠が1万9千石で山野辺城に入った。義忠は周囲に三の堀をめぐらして城池を拡張し、西部は山間部から見下ろされるので四の堀を用意し、北西部には出丸を設けて防備を固め整備した。また各街道の入り口に寺院を配置し たのは、戦闘においての防御陣地を想定している。

山野辺義忠は山野辺城と城下町の整備に力を入れ、短い治世の間に多くの業績を挙げた。その能力から、兄の家親の死後、宗家に代わって最上家を継ぐことを期待されたが、これが最上家臣団の分裂に繋がり、元和8年(1622)、最上藩は改易され山野辺城は破却された。

改易後、義忠はその能力を買われ、水戸藩の重臣として迎えられ、その子は山野辺兵庫を名乗り、水戸藩の徳川光圀の守役となった。

その後、文政6年(1823)、この地は白河藩阿部氏の出羽の飛び地となり、旧山野辺城二の丸に陣屋が置かれた。現在、中央公民館に山野辺陣屋の玄関が残っている。