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山形県村山市林崎

震災前取材

 

居合道の祖とされる林崎甚助重信は、京都で尉北面の衛士であった浅野数馬源重治を父とし、菅野を母として生まれ、幼名を民治丸と言った。父重治は、天文7年(1538)、楯岡城六代城主の最上満英に仕官した。しかし天文16年(1547)、父重治 は、いかなる理由で恨みをかったのか、坂上主膳に帰宅途中を闇討ちされ殺された。爾来、母菅野と民治丸には仇討ちの苦難が続くことになった。

天文23年(1554)、民治丸13歳の時、仇討ちのため剣法の上達を祖神の熊野明神に祈願参詣し修行に励んだ。その結果、弘治2年(1556)、熊野明神より「神妙秘術の純粋抜刀」の奥義を神授された。

民治丸はさらに研鑽し、永禄2年(1559)、「純粋抜刀」の至妙を悟り開眼し、元服して村名の「林崎」を姓として「林崎甚助重信」と名乗り、仇討ちの旅に出た。

永禄4年(1561)、重信20歳の時、京都で敵の坂上主膳を見つけこれを討ち果たし本懐を遂げた。重信は熊野明神に礼参し、信国の刀を奉納し、爾来「純粋抜刀」を「林崎流」と称した。

翌年、苦労をともにした母の菅野が没すると、孤剣を抱き廻国修業に赴き、各地で門弟を育成し、純粋抜刀を広め、居合道の基礎を確立した。