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福島県会津美里町船場

震災前取材

  • 上り口
会津盆地の南端部に向羽黒山を中心にした山塊があるが、この山塊全体が向羽黒山城である。この山にはもともと地元の土豪が築いた城があったが、本格的な城を築いたのは葦名盛氏であり、築城は永禄4年(1561)から8年間を費やしたという。葦名氏滅亡後も伊達氏、蒲生氏、上杉氏が改修を行っている。

比高が約190mの独立した山塊で、盆地内が一望のもとに見渡せる。東に阿賀川が流れ絶壁状で、こちらからの攻撃はほぼ不可能である。歴代のこの地の支配者は、この城を重視したようだ。特に、徳川家康と対立した上杉氏は、会津入封後、会津若松城はほとんど手を付けずこの城を徹底的に整備したという。徳川が会津盆地に攻め込んだ場合、上杉景勝はこの城を最大の防衛拠点として考えたものと思われる。

山全てが城という巨城であり、曲輪は100以上あるといわれる。本郭の他に、二の郭、三の郭、羽黒郭などがあるが、これらは本郭の周囲に存在する訳ではなく、ほぼ独立した城砦であり、城砦群の集合体が向羽黒山城である。

城は標高408mの向羽黒山の山頂を中心に、東西約1.4㎞、南北約1.5㎞の範囲が城域である。総面積は約50.5haあり、会津若松城の約2倍ほどである。本郭のある向羽黒山の山頂付近を「実城」といい、この部分だけでも一つの独立した山城を形成している。

道路を登って行くと北側に羽黒山(標高344m)のピークがあり、山頂に羽黒神社があり、ここが羽黒郭である。道を南に進むと鞍部がある。この北側斜面に盛氏の屋敷があったといい曲輪群があった。そこを過ぎると三の郭であるが、公園化され地形は大分改変されたようだ。

ここを過ぎると二の郭であるが、その間に幅約30m、深さ約15mの大堀切と竪堀があるという。二の郭も単なる郭ではなく「中城」というべき独立した城である。頂上の二の郭を中心に北側、西側に郭群が配されている。それぞれの曲輪が前面に土塁を持ち、横堀、竪堀が複雑に配置され、石垣も多用されているという。さらに進むと弁天神社がある。弁天神社は東端の絶壁上にあり、標高は320mでここから東側の眺望は抜群で、ここには物見台が置かれたかもしれない。登りきったところは切通しになっており、かつての実城と中城間の大堀切だという。

さらに登ると二の郭になり東西約60m、南北約40mの平場になる。この郭も標高350mのこの山塊の一つのピーク上にあり、ここには葦名盛氏の居館が置かれたという。

実城一の郭には一旦堀切まで下り、さらに南に高度で70m登る。西側の登り口が土塁に囲まれた虎口状になっており、斜面には竪土塁、竪堀、曲輪が複雑に配されている。山頂部は2つに分かれ、その鞍部が内桝形となっている。この北側が本郭の東郭であるが、巨石が数個あり石庭だというが狭く、物見台のような感じである。

南にさらに上ると、二段の土塁を持つ腰曲輪を経て本郭跡に到る。本郭跡は未整備で南北約40m、東西約25mの平場になっている。南側に幅約15m、深さ約7mの大堀切があり、さらに南に尾根伝いに行くと郭があり、その南側に幅20mほどの堀切があり、竪堀となって山腹まで下っているという。

その他、この山塊の幾つかのピークを中心に多数の郭が配され、それぞれに空掘、土塁などがあったようだが、城跡としては未整備で、その全容をつかむ事は困難である。また上杉氏により石垣なども随所に築かれたようだが、それらは草木の中に埋もれ見ることはできない。

この地の歴代の支配者が、この城を決戦の城として整備改修したが、上杉景勝は関ヶ原本戦が西軍の敗北で決したことにより景勝は徳川に降り、この城は一度も戦うこと無しに破却させられた。