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秋田県羽後町西馬音内字掘回

震災前取材

 

西馬音内城は、城域の北西を雄物川の支流である西馬音内川が流れ、矢島街道と由利郡への間道である七曲越が合流する地に位置する。尾根筋を切堀で遮断した比高約90mの丘陵先端部を城域とし、北、東、西側の急斜面の断崖を最大の防御とした、東西1000m、南北600mの大規模な山城である。

大手門は城の北東に位置し、そこから十三森と称する大手道を進むと二ノ郭に至る。二ノ郭は、東西約40m、南北約150mの細長い郭で、北東隅に櫓台が配されていた。各郭は東西に長く配されており、登城路は各郭の側面を通っており、上部の郭から攻撃できるようになっており、また要所は竪堀で遮断されている。

二ノ郭の南に一段高くなっている部分が主郭であり、東西約100m、南北約50mほどある。主郭の東側は空堀で区切られ、土橋が設けられており、飯塚館と呼ばれる郭に至る。この飯塚館方面が西馬音内城の搦手口に相当すると思われる。

鎌倉時代の初期に雄勝に入部した小野寺経道は、稲庭城を築き居城とした。建治3年(1277)、経道は次子である道直に西馬音内城を築かせ、西の由利郡方面の抑えとした。

西馬音内城の八代城主は、小野寺氏の十三代当主輝道の長子であった。しかし庶子であったためか、弟である義道が十四代当主を継いだ。茂道は宗家の義道に従い、天正14年(1586)の有屋峠合戦など数々の合戦に従軍している。

この茂道の時代、茂道の娘が矢島城の矢島五郎満安に嫁いでおり、矢島氏とは友好関係にあった。天正16年(1588)この女婿の矢島満安は、同じ由利十二頭の仁賀保兵庫頭挙誠との合戦に敗れ、西馬音内城に落ち延びた。

この一件は、小野寺氏総領の義道にあらぬ疑いをかけられ、ついに追討の軍を差し向けられた。茂道はこれを迎え討とうとしたが、舅の苦衷を察した満安は西馬音内城にて自刃して果てた。

この様な小野寺氏の内紛に乗じ、最上義光は文禄4年(1595)に雄勝郡に侵攻した。このとき茂道は、女婿の矢島満安の死に対し含むところもあったのだろう、義道に従わず最上氏に降った。そのため岩崎城、湯沢城は最上氏によって落とされ、雄勝郡の実質的支配は最上氏に移った。

その後、西馬音内城は再び小野寺氏に属したが、雄勝の支配を巡って最上氏とは緊張関係が続き、慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の際に、最上氏との対立軸上で西軍の上杉方として動き最上氏と対立した。

関ヶ原での西軍の敗北により上杉勢は退却し、小野寺氏は孤立し、最上氏、檜山安東氏、戸沢氏等の攻撃を受け、茂道は西馬音内城に火をかけて庄内に逃れた。結局小野寺氏は石見に配流となり、茂道の子孫はその後、新庄藩や秋田久保田藩に仕えたという。