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秋田県能代市大森山

震災前取材

 

風の松原は、能代の海岸に面した黒松による防風林で、760haの全域が保安林に指定されている。現在は公園として整備され、サイクリングコースやジョギングコースが設けられ、市民の憩いの場になっている。

古くから、能代の海沿いの地は、砂による家屋や農地の埋没、米代川の閉塞などの被害を受けてきた。

この地は、白神山地の南麓を日本海に向かって流れる米代川の河口の両岸に発達した町であり、米代川は、その流域で生産される秋田杉を運ぶ重要な交通路だった。しかし同時に大量の砂をも運んできた。

砂は河口一帯に堆積し、海に沿う幅広い砂浜を形づくり砂丘に変貌していく。そして毎年、秋の終わりから冬、春先まで日本海からごうごうと吹きつける風に吹き飛ばされ、能代の地は、砂による家屋や農地の埋没、米代川の閉塞などの被害を受けてきた

正徳元年(1711)、これを見かねた能代で回船問屋を営む越後屋太郎右衛門は、佐竹藩の許可をとり砂止め普請を始めた。簀垣を立てて、さらに二重三重に柴垣で囲いをつくり、そこに町中から集めた屑芥やコウボウムギ、ボウフウ、ハマエンドウなどの草の実を撒き、さらに柳、松などの苗を植えた。

しかし、これも吹き飛ばされたり砂に埋もれたりして何度も簀垣を立て、草の種をまきなおさなければならなかった年もあった。数年後にやっと草が根づき、そこで茱萸や柳を植え、明和年間(1764~72)から松を植えることができるようになった。

太郎右衛門らは、これらを自費で行ったが、次第に藩も注目するようになり、松の林を見守るための屋敷地をあたえ、砂止めが成功して松が成長したらその半分をあたえる約束をした。文化11年(1814)までに、松2113本、槻370、柳580、槐67、合歓2500が植えられた。

ところが、天保5年(1834)、これらの木は飢饉で困窮した人々により、焚物としてすべて伐採されるという事件が起きた。おびただしい木々が伐られ、藩からもらうはずの取り分も、困窮した人々に与えられてしまった。しかしそれでも太郎右衛門らは、伐採された跡地に、松苗を植えて砂と戦いつづけた。

文政4年(1821)以後は、藩も本腰を入れ始め、賀藤景林(けいりん)が木山方吟味役となり、本格的な植栽が始まった。工事費は藩が出し、太郎右衛門らを植立係として松80万本の植栽がはじまった。

植樹はその後もつづけられ、多くの協力者や後継者が凶暴な飛砂と戦った。彼らが植えた松は、いま、能代市を中心に南北14kmにわたり、700万本といわれる黒松林の名勝「風の松原」として残っている。