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秋田県秋田市新屋

2016/07/27取材

 

この余楽庵は、農業指導者として県内外の農業発展に尽力した森川源三郎が山居生活を送った庵。

森川源三郎は、石川理紀之助、齋藤宇一郎とともに秋田県の「農業三大人」と称されている。農民の生活向上に尽くした。源三郎は、弘化2年(1845)、現在の新屋表町に秋田藩士森川又五郎の長男として生まれた。24歳で戊辰戦争に出兵、35歳の時に秋田県庁に奉職し、ここで同じ職場にいた石川理紀之介を知り、両人は協力して秋田の農業の発展に尽くした。

現在も続いている秋田県種苗交換会を発足させ、発展、継承させたことは特筆すべきことだ。第一回交換会は明治11年(1878年)に開催され、それ以後今日まで130年にわたって続いている。

源三郎は県の植物試験場に勤務し、食用菊について研究、いろんな工夫や努力を重ね商品化した。その後も、大豆、麦類など農作物の品種改良や栽培方法の研究を重ね、その成果を惜しみなく人々に広めた。その他、ジャガイモを作る事を呼びかけ、作り方を書いた本を村民達に配り、またリンゴやスモモ、ウメなどの果樹の栽培を奨励、ナスの作り方や料理法を研究して人々に勧め、白玉粉やデンプンの製造、麺類や氷どうふの製造などを広めた。

また農村の生活ぶりが次第にぜいたくになっていく農村の状況を憂い、凶作や不作に備えての日頃からの貯金の大切さを訴え、このことは、各地に郵便貯金組合、稲作講などが創設されるきっかけになった。

源三郎は第一級の農業指導者として、多方面で活躍したが、61歳になったときに、宅地や畑を含むすべてを長男に譲り、上北手古野の二見山に、6畳1間に押し入れと土間のついた粗末な「余楽庵」を自分で建てて住み、山居生活を送るようになった。余楽庵での生活は非常に質素なもので、「天下に廃物なし」をモットーに、農具、生活道具などは修理して長く使い、廃物を利用して自作の道具を作るなどした。また、山に植林し、公園をつくり、人々に親しんでもらい、ここで作った杉の苗6千7百本を近くの村の人々に寄付して植えさせた。

生涯の友であった石川理紀之介は大正4年(1915)に71歳でその生涯を閉じた。源三郎はその後も余楽庵での生活を続けたが、大正14年(1925)に胃腸を患い余楽庵を引き払って新屋の本宅に帰り、翌年の大正15年、82歳で没した。

余楽庵は、源三郎の死後、森川家の敷地内に移築しされ、その後秋田市に寄付された。建物は現在でも原型のまま保存会により管理されている。