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秋田県秋田市千秋公園

震災前取材

千秋公園の久保田城本丸跡に、与次郎稲荷が祀られている。この稲荷には次のような伝説が伝えられている。

常陸から佐竹義宣が秋田に国替えとなり、この窪田の神明山に久保田城を築いた。当時は土崎が城下で人も住んでいたが、この地は荒れ地や湿地が広がり住む人も少なかった。

ある日、久保田城を築いた佐竹義宣の前に、一匹の大きな狐が現れ、「私は、この神明山に住んでいた齢三百の狐である。このたびの築城により、住む場所をなくし困っているので住む場所を与えてほしい。もし願いがかなえられるならば、必ず殿の役にたちますほどに」と願い出た。

これを不憫に思った義宣は、狐に城の茶園の近くの場所を与え、「茶園守の与次郎」と呼んだ。与次郎狐は約束通り、義宣のため飛脚として秋田~江戸をわずか6日で往復し大いに働いた。しかし、与次郎狐の活躍により仕事をなくした飛脚たちの恨みをかい、羽州街道の山形六田村で罠にかかり殺されてしまった。

与次郎狐の死を哀れに思い、義宣が祠をつくりその霊を祭ったのが、与次郎稲荷神社だと伝える。

与次郎稲荷は、与次郎が殺されたという現在の山形県東根市六田にもあり、同じような伝説を伝えている。与次郎狐が活躍したとする時期は、佐竹氏が秋田に入って間もなくのことである。その時期には秋田久保田藩は石高も定まっていない時期だったろうと思われ、また、佐竹義宣は徳川家康の命で、京から秋田に、旧領に立ち寄ることも許されない中での、わずか90余騎の供連れでの左遷だった。

恐らくは、江戸との交渉や、旧領との連絡は頻繁に行われたろうと推測でき、与次郎狐の伝説も、そのような中での何らかの事件が背景にあるのかもしれない。