青森県八戸市内丸1丁目

 

別名:中館

八戸城は、現在の八戸市内丸に位置し、藩政期に盛岡南部藩から分藩した八戸藩の治城である。

本丸、二ノ丸、三ノ丸から構成され、本丸は城の北端に位置し、東西約150m、南北約200mで、現在の三八城神社付近に御殿があった。四方を水堀と土塁で囲まれており、北側の小高い所に物見台があり、その付近には庭園が存在したと云う。

二ノ丸は、本丸の東南に位置し、現在の内丸二丁目から三丁目付近にあたる。角御屋敷、学校、馬屋が置かれ、八戸藩の祈祷寺であった豊山寺、八幡宮があり、また藩の重臣の屋敷があった。

糠部郡に下向した南部師行が八戸根城を築き、それとほぼ同時に、根城南部氏二代政長の三男の信助が、根城の支城として築いた中館が始まりとされる。

根城南部氏は一貫して南朝方として活躍したが、南朝の衰退とともに宗家の座は三戸南部氏に移行していった。しかし家格からすれば根城南部氏と三戸南部氏は同格であり、根城南部氏は独立を望む傾向があった。

これに対して、中央集権体制を志向する盛岡南部藩初代藩主南部利直は、根城南部氏の流れの八戸氏を遠野に移封、八戸を直轄地とした。

しかし、盛岡南部藩二代藩主南部重直が、嗣子を定めないまま死亡したことにより、幕府の裁定により南部藩は分藩され、八戸藩2万石が立藩した。

八戸南部藩初代藩主直房は、新たに居城を築くことなく、三八城山に既にあった城跡を修築して八戸城とし、藩政の治城とした。本来、城というより陣屋に近いものだったが、当初は「城」と呼ばれていたものの、無城主格だったために、後に「御屋敷」と呼びかえられた。

直房は、家臣団の編成と城下町の整備に取り組み、藩政改革にも取り組んだが、寛文8年(1668)41歳で急死した。これは、一説には、盛岡藩の陰謀による暗殺とも言われており、当時幕府からも調査が入った。そのためか、盛岡藩はわざわざ「八戸藩は分家ではなく、独立した対等の立場」と異例の表明をしている。

直房の死後は長男の直政が継いだ。学識は高く、将軍綱吉の信任もあつく、盛岡藩の分家でありながら将軍の側用人も勤め、福島に5万石をとの綱吉からの申し出もあったがこれを固辞したとされる。

この地は寒冷な地で、表高2万石ではあったが不作が続き実高ははるかに少なく、藩財政は悪化、直房は藩政改革に努めたが39歳で没した。この直政の死についても、盛岡藩南部家による毒殺説がある。

直政の死後は末期養子となった盛岡藩主南部重信の四男の南部通信が継いだ。通信が八戸藩三代藩主となったことで、盛岡藩との確執は解消したと思われる。

その後、天保9年(1838)、8代信真の代に沿岸警備の功が認められ、幕府によって城主格として認められて、八戸御屋敷は再び「八戸城」と呼ばれるようになった。

以降、天守や隅櫓を構築する計画が立てられたが、実現することなく明治維新をむかえ、明治4年(1871)、廃藩置県とともに八戸城は廃城になった。

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