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青森県八戸市八幡字八幡丁

震災前取材

櫛引八幡宮は南部家初代の南部光行の草創と伝えられる。

文治5年(1189)、平泉合戦に戦功をたてた光行は、源頼朝から糠部郡(岩手県北部、青森県東部)を拝領し建久2年(1191)に入部した。後に家臣の津島平次郎を遣わして、本領の地の甲斐南部郷の八幡宮御神体を奉持させ、櫛引村に宮社を造営し武運長久を祈ったという。

また、甲斐から別当僧の 宥鑁(ゆうばん)が供奉し、別当普門院の祖となったという。

平次郎は宮地が決まるまで、六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営んで奉祭し、その子孫は滝沢と名乗り、八幡宮の鍵守として普門院とともに代々祭礼を取り仕切った。

櫛引村には大同年間(806~810)に、坂上田村麻呂が祀った八幡宮の小社があり、同神同体であるので瀧ノ沢の仮宮からこの地に遷座したとある。以後、櫛引八幡宮と称し、南部の総鎮守となった。
この櫛引八幡宮の国宝館には、国宝の赤糸威鎧と白糸威褄取鎧の2領の他、多くの文化財が展示されている。

赤糸威鎧には、大袖と兜に菊一文字の飾金物があり、「菊一文字の鎧兜」として有名である。この鎧は、南朝の長慶天皇の所領とも伝えられている。

また白糸威褄取鎧は紫・薄紫・黄・萌黄・紅糸をもって褄取りを施した白糸の威毛の鎧で、南北朝時代の名品である。南部信光が後村上天皇から拝領したものと伝えられる。