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青森県八戸市根城字根城…史跡根城の広場

震災前取材

根城は馬淵川右岸の段丘上に築かれた城で、本丸、中館、東善寺、岡前舘、沢里館の5つの館(郭)から構成されていた。根城跡は中世から近世初期にかけての城館の土塁、堀などがよく原型をとどめている。また、主殿、城門、馬屋、工房、納屋、板蔵などが復元されている。

甲斐源氏の流れを汲む信濃三郎光行は源頼朝に従って活躍し、文治5年(1189)平泉の奥州藤原氏攻めの戦功により、糠部郡など5郡を与えられ、南部氏の祖となる。

元弘3年(1333)、北畠顕家が陸奥国司として後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて奥州に下向した際に、南部光行から四代目にあたる南部師行が同行し、建武元年(1334)、糠部郡の八森(八戸)の地に築城した。奥州における南朝方の拠点となる城であることから「根城」と命名したという。

しかし、北畠顕家とともに足利尊氏追討の遠征軍に参加した南部師行は、延元3年(1338)、和泉(大阪)で戦死した。南部師行の後を継いだ南部氏五代政長は、北朝方への降伏勧告を度々受けるがこれを退け、津軽北朝方の中心である曾我氏と抗争を繰り返した。そして、顕家のあとを受けて鎮守府将軍、陸奥介として新しく赴任してきた北畠顕信(顕家の実弟)を政戦両略において支え、退勢期の奥州南朝勢力の維持につとめた。

当時、三戸南部は北朝方で、南朝方の勢力が弱まるにつれてその勢力は逆転し、八戸南部は三戸南部の指揮下に入った。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、三戸南部の南部信直と八戸南部の南部政栄は、信直が小田原に参陣し、政栄は津軽や九戸の不穏な情勢に備えるために留守居をすることとした。南部信直は天下人の秀吉から南部七郡の所領を安堵されるとともに、南部氏の惣領権は三戸南部氏となり、八戸南部氏がその配下となった。

三戸南部氏は新たに盛岡城を築いて居城とするが、南部信直の嫡男南部利直によって寛永4年(1627)、根城南部氏二十二代直義は遠野に国替えとなり、根城は廃城となった。