青森県青森市浪岡大字北中野字天王

2013/04/27取材

 

金光上人は、浄土宗の開祖である法然上人の高弟で、浄土宗布教のため奥州に来たり、やがて浪岡の五本松に草庵を営み、浄土教に一生を捧げた。この金光上人の墓は、東奥念仏の布教後入寂した場所と伝えられている。

金光上人は、筑後の竹野郷の出身で、父は竹野の領家、当道朝臣及麿、母は国守以長の女だった。

及麿は仏法を信じ仁心篤かったので国中の人々は皆竹野の長者と貴んだと云う。しかし40歳を過ぎても子がなく、夫婦は観音堂に祈願し、久寿2年(1155)の満願の日に授かったのが金光上人だった。

幼いころから聡明叡敏、神童といわれ誦経礼拝という普通の子供とは変わっていたと云う。仁安2年(1167)の13歳のとき、単身京へ上り、叡山恵光房円輔阿闍梨のもとで学び、その後、叡山にとどまること20年、文治2年(1186)、32歳のときに僧都に補せられ、筑後の勅願所石垣山観音寺の別当として赴任した。

金光房は荒廃した石垣観音寺の復興に努め、5年間で旧観に復したが、建久7年(1196)、別当所領について鎌倉に至り源頼朝に上訴した。この時期に、法然上人を知ることとなり、その智の深きは大海の如く、徳高きは山にも勝っており、その弟子となった。

その後、正治2年(1200)、布教のため奥州へ下り、遠野の善明寺、土崎の阿弥陀堂を建て承元4年(1210)津軽に入り、外ヶ浜での布教活動ののちにこの浪岡の五本松に庵を結んだ。

津軽へ来て七ヶ年、布教に尽力したが、病む身となり、建保5年(1217)、薬石の効なく南無阿弥陀仏の声のうちに一生を終えた。63歳だった。

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