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山形県鶴岡市青龍寺

2013/08/18取材

 

金峯山は、庄内平野の南縁にそびえる海抜458mの、四季それぞれの趣を見せる名峰である。山麓は第三紀水成岩であるが、山腹以上は花崗岩からなり、巨樹老木に覆われ、山頂からは鳥海山、出羽三山、日本海が見渡され、また眼下には鶴岡周辺の広々とした美田や点在する集落など、壮大な景観が広がる。国指定名勝として、庄内海浜県立自然公園にも指定されている。

また山中には、ここが北限と言われている仏法僧をはじめ、珍しい動植物、昆虫等が生息しており、金峯山博物館には、これら多数のはく製や標本が保存展示されている。

金峯山の歴史は古く、天智天皇の時代(671頃)、役小角が山頂に金剛蔵王権現を祀ったのが始まりと伝えられる。役小角は役行者とも呼ばれ修験道の開祖とされている。役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたといい、左右に前鬼と後鬼を従えた図像が残っている。山岳修行を行い、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。その後、天皇に謀叛を企んでいると讒訴され、朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。しかし流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登ったとも言われている。神出鬼没の呪術を使い、全国の修験道の地にその伝説を残しており、この地の開山伝説もそのようなものと考えられる。

金峯山は、その昔は金峯三山と言い、古来より信仰の山として、金峯山山頂に本殿があり、金峯山全域に社殿が点在する。大同年間(806~10)、山頂にはじめて社殿が創建され、承暦年間(990~95)、大和国宇多郡の丹波守盛宗が出羽国に移る際に吉野の金峯山の神を勧請したと伝える。

奥州藤原氏はじめ歴代の領主が崇敬し、江戸時代には庄内藩の祈願所とされた。神仏習合の時代には真言宗の修験道場として栄えていた。金峯山の周囲の虚空蔵山、熊野長峰を含めた3山が熊野三所権現となった。さらに母狩山から摩耶山にいたる広大な山域は、逆峰修験の場となった。明治の神仏分離までは金峯山蔵王権現と称した。

明治の神仏分離に際し、明治3年(1870)に御嶽神社、明治9年(1876)に県社に列し、翌明治10年(1877)に金峯神社に改称した。神仏分離の際に、山麓の青龍寺は真言宗の寺院として金峯神社から分離した。

山頂の本殿は、承暦年間(990~95)、勅命により造営されてより代々修復され、久安6年(1150)に藤原秀衡が社殿を再建し、慶長13年(1608)には最上義光が大修復を行っている。その後も、元文元年(1736)と明和5年(1768)には庄内藩の酒井家が修復、又近年では大正11年(1922)に修復されている。

江戸時代初期の様式がよく残っており、近世初期の建築物として、また建立後の時代変遷の確認できる点でも価値が高く、東北地方の修験道の数少ない遺構として、国の重要文化財に指定されている。