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山形県白鷹町鮎貝

震災前取材

 

鮎貝城は、最上川左岸の河岸段丘の、比高15~20mの丘陵を利用して築かれた連郭式の平山城である。

丘陵先端の、現在の八幡神社境内の120m×130mほどが主郭で、社殿背後には高さ4~5mの大土塁が築かれている。この土塁の外側にはL字型に水堀の一部が残っており、外部と分断している。

西側の、現在住宅地になっている東西250m、南北200mほどが二の郭、三の郭の跡で、空堀で区画されていたと思われ、三の郭西側には堀祉が残っている。

永久年間(1113~18)藤原鎌足十一代末裔の藤原北家出身の安親が、平泉の藤原氏を頼って京都より下向、下長井荘の荘官として武士化し在地勢力となった。当初は置賜郡横越に居住し、横越氏を称したと云う。下長井は、当初は長井氏の勢力下にあったが、伊達氏が勢力を伸ばし、横越氏は応永年間(1394~)初期以前には伊達氏に臣従したと考えられる。この時期、安親より九代の横越成宗の代に、横越氏は伊達家上座の格をもって、この要衝の地に築城し鮎貝氏を称した。

戦国期には伊達氏に従属しながらも独立した国人勢力として認識され、天文7年(1538)年には、最上川左岸を一円知行していたと推測され、当時鮎貝は、高畠、米沢に次ぐ城下町として繁栄したと云う。

天文の乱では、鮎貝兵庫頭は最後まで伊達晴宗に反抗したとされるが、乱後も伊達家一門として所領安堵された。しかし戦国末期に、城主鮎貝忠旨(宗信)は、山形城主の最上義光の姉を室に迎え、伊達氏への対立姿勢を鮮明にしたため、天正15年(1587)、伊達政宗に鮎貝城を攻撃され最上領に逃れた。しかし忠旨の弟宗益は伊達氏に付き、伊達氏を背景に家督を継ぎ、天正19年(1591)、伊達政宗の岩出山移封に従いこの地を離れた。

その後、鮎貝城は蒲生氏を経て上杉氏の支城となり、上杉氏家老の直江山城守兼続は、鮎貝城に中条与次三盛を城代として置いた。東北の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦の折には、中条三盛は荒砥城の泉沢久秀と共にこの地を出立して、最上氏の八ッ沼城を攻めた。その後、元和8年(1622)一国一城令により鮎貝城は廃され御役屋が設けられ、寛文5年(1665)に本庄長政が代官として鮎貝に入部し、明治維新まで本庄氏がこの地を治めた。