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青森県南部町高瀬

2014/08/24取材

 

幕府の執権北条最明寺時頼がこの地方を旅した時、美しい名久井岳に魅せられ登った。帰り道で、中腹のある寺に一夜の宿を頼んだが断られ、やむなく別の庵寺に宿を求めた。

庵寺の玉峰指城和尚は、ありあわせの品で心からもてなしをしたため、時頼は庵主の人柄に深く感謝し、翌朝自分の持っていた扇子の表に、「壱千石名久井通り右永代可令知行也」裏には「水結ぶ、名久井が岳を 眺むれば 海より出でて 山に入る月」と書き置きし下山した。

途中、この場所で下から上ってくる庵主に出会ったところ、庵主は「朝食のご飯がなかったので、托鉢しての帰りです。どうぞ今一度お寺へお戻りください」とねんごろに帰山をすすめたが、時頼は好意を感謝しそのまま別れた。

翌年、鎌倉から時頼の使者が来て、世話になった庵寺に、七堂伽藍経堂を立派に建てて「白華山法光寺」とした。