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青森県深浦町森山

2013/06/08取材

別名:森山館

館は、森山崎の丘陵に築かれ、戦時の際に使われる根小屋式の単郭である。南側と北側は急崖で守られ、周囲には深く切った堀切が見られる。丘陵東側には森山東館と呼ばれた主郭が存在していたとされ、東館は平時の居館だったと思われる。

築城時期、築城主など詳細は定かではない。しかし館主として森山飛騨守季定の名がある。季定は安東氏の庶流で、安東氏の北辺の守りとしてこの館にあったと考えられる。しかし、天文15年(1546)、桧山安東氏の安東尋季に造反し館に籠もり抗戦したが、尋季は正面から、その増援の蠣崎季広は搦め手から攻められ館は落城、季定は自決した。

その後、この地は津軽氏の支配するところとなり、為信の家臣で水軍方の小野茶右衛門という剛勇を謳われた武将が、秋田方面に対する押さえとして配された。しかし、この茶右衛門には横暴な振る舞いがあり、津軽二代藩主信牧のとき、「鬼勘解由」と呼ばれた笹森勘解由が討伐に差向けられた。

しかし館の防備は固く、そのため勘解由は持久戦に持込み水の手を絶った。その結果、館は落ち、小野茶右衛門も討たれたという。この騒動は、津軽藩の跡目争いが関係していたともいわれるが詳細は定かではない。

この落城の際に、茶右衛門の娘の千鶴姫と、姫と恋仲だった五島久三という若者が、落城の際に来世を誓い心中したといい、その場所は「姫岩」と名付けられ、村人に語り継がれた。後に、岩近くのトンネル開削時には多数のかんざしが発見されたと云う。

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