戦後の南京での軍事裁判では「南京大虐殺30万人、」となっているが、当時の南京の人口は約20万人だった。また、日本軍の南京占領後、南京市民の多くは南京に戻り、1ヶ月後に人口は約25万人になっている。この客観的な事実だけでも、少なくとも30万人虐殺が事実ではないと言える。

南京が陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、ロイターやAPなど欧米の記者たちも含め100人以上の新聞記者やカメラマンが南京市内に入った。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺、」を報じていない。アメリカのパラマウントニュースも、南京占領の記録映画の中で「30万人大虐殺、」は報じられていない。またイギリス系の英字新聞の紙面では、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が写真入りで報道されている。

南京の全住民に匹敵する(それ以上の)30万人の大虐殺が行われたのが事実だったとした場合、戦後の南京軍事法廷でも言われているように、「死体が大地を覆いつくし、悲惨極まりないものであった、」はずであり、それらの事実を日本軍が欧米の記者たちに隠し通せることなどはできないだろう。欧米の報道がそれを伝えていないということは、そのような事実はなかったと考える方が自然だ。

さらに、南京から脱出した中国国民党総統、蒋介石は、終戦に至るまで、何百回ものラジオ演説を行なっているが、その中で、「南京で大虐殺があった、」ことについて大きく取り上げてはいない。大虐殺が事実であったのなら、抗日のプロパガンダとして、大々的に取り上げると考えられるが、蒋介石の認識では「南京大虐殺、」が確証を持てるだけのものはなかったということになる。

では日本軍による「虐殺、」が取りざたされる要因はなかったのかといえば、その要因はあったとはいえる。それは日本軍の公式文書のなかにある、敗残兵に対する「処断、」である。約3万人の捕虜の内、約1万8千名が「処断、」されている。

南京戦の最中、日本軍は南京市内に「安全区、」を設け、そこを攻撃することはなかった。しかし日本軍による南京占領が間近に迫ると、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込んだ。これらの中国兵の中には、武器を隠し持ち市街戦を準備する者もおり、また安全区内で反日工作を行い、日本軍の虐殺などのデマを広めたりもした。これらの「便衣兵、」は、国際法ではスパイなどと同様に、「捕虜、」としての扱いを受けることはできず、その多くは処刑された。この「便衣兵、」の外見は全くの民間人であり、このことが、「民間人の虐殺、」と伝えられたと考えられる。

日本軍の上海から南京への進撃は、予想以上に早く、そのため補給が間に合わず、食糧調達などは現地調達になり、それが略奪につながったこともあっただろうとは推測できる。また、食料がひっ迫している中で、いつ暴発するかもわからない3万人に及ぶ、不法な「便衣兵、」を放置しておくわけにもいかず、「処断、」を急いだと考えられる。また「便衣兵、」の捜索には、家屋をしらみつぶしに捜索する必要があり、その際に、一部の勝利におごった日本兵により、家人に対して暴行や強姦などの事実はあったようで、それらについての憲兵の報告を聞いた松井石根大将は「痛恨の極みである、」との言葉を残している。

当時の南京は、国民党政権の首都であり、欧米各国の大使館などが多くあった。これらの大使館の本国への報告で、犠牲者数は6万人から50人以下までとまちまちであったが、全て伝聞の情報を元にした数字であり、だれも虐殺とされるものを目撃してはいなかった。また、この南京虐殺の重要な証拠とされている16ミリフィルムの「マギーフィルム、」には、死体は写っているものの、それが戦死したものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍によって殺害されたものなのか、中国軍の敗残兵によるものなのかはまったく不明である。このフィルムは、当時南京に残留したアメリカ人牧師ジョン・マギーが撮影したものだが、東京裁判で「市民を殺害するその瞬間を目撃したのは一人の事件についてだけであった、」と答えており、「虐殺、」についての資料として扱うには無理があるものだが、それは今も、日本軍の「蛮行、」を訴えることに使用されている。

一般市民が殺害されたとする目撃情報も、それが、一般市民に偽装した便衣兵だったとも考えられる。また当時ニューヨーク・タイムズに掲載された「南京虐殺の証拠写真、」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されており、無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道しているため、その正確性には問題がある。またニューヨーク・タイムズの通信員には、それらの報道とはまったく逆に、「上海から南京へ向かう途中、日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことはなかった、」とし、「当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともない、」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった、」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたが、民間人をやたらに殺すということはなかった、」「漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった、」とし、伝聞等による推定の数としては、南京では数千の民間人の殺害があったと考えられると述べ、「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした、」とも報道している。

南京に住む欧米人らは「南京国際委員会、」を作っていたが、彼らは、南京占領後の日本軍による犯罪事件をまとめ、被害届として日本軍に提出した。それは、日本兵による強姦、略奪、殺人等を記録したもので、日本軍に取締りを求める内容だった。それには、日本兵による犯罪が425件記されており、そのうち殺人事件は49件だった。これだけでも「30万人大虐殺、」などなかったことの証明であり、しかもこの49件の殺人の殆どは伝聞であり、直接目撃されたものは2件だった。それも「便衣兵」捜索の最中に、急に逃げ出した者を撃ち殺したもので、戦時としては国際法上合法的なものだった。

当時の日本軍の岡村寧次大将は、南京で「大暴行」があったとし、次のように書いており、虐殺があったとする者はこれをしばしば引用している。「南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である、」しかし岡村大将は南京へ行ってわおらず、この記述は伝聞からのもので、捕虜でもない「便衣兵、」の処断の情報が誤って伝えられたものとも考えられる。

また南京軍事法廷で戦犯として有罪判決を受けて処刑された日本軍将校が、「百人斬り競争、」「三百人斬り競争、」を行ったとされる件は、特ダネが欲しかった東京日日新聞(現在の毎日新聞)の記者が、日本軍将校の了解のもとに書いた「創作、」であることがはっきりしている。この記事は、当時の日本国内の戦意高揚のため、白兵戦において軍刀で中国軍を斬る競争をするというもので、日本国内で評判になったものだ。しかし、当時の銃火器による戦闘において、軍刀で敵を倒す白兵戦はすでに行われなかった。

南京での「便衣兵、」の「処断、」の際に、その軍刀は使われたかもしれないが、日本刀では3人斬るのが限界とされ、1万8千名に及ぶ便衣兵の処断には、銃火器が使われたと考えるのが妥当だろう。しかし、この「百人斬り、」の記事により、その二人の将校は日本国内で有名になり、マスコミにのせられた国内の学校関係者らから、戦意高揚のための講義の依頼が殺到したらしい。このため、南京軍事法廷では抗弁することもかなわず、戦犯として処刑された。この東京日日新聞は、南京までの「百人斬り、」を煽り、戦後は毎日新聞として、「南京大虐殺、」として左翼を煽っていく。マスコミの大衆を煽る愚劣さが、戦前、戦後にわたってまったく逆の形で現れている。

現在も「南京大虐殺、」での犠牲者の数、そして「虐殺、」自体の存否が様々に議論されている。その議論の中からは、南京での犠牲者は、中国軍の戦死、中国軍による「漢奸狩、」による犠牲、国際法違反の「便衣兵、」の処断、そして一部の巻添えになった一般市民であり、「虐殺、」の様相は見えてこない。

それでも、戦後の軍事法廷では「南京虐殺、」が裁かれ、それは「勝利者の論理、」で定説となり、松井大将、谷中将らが死刑となっている。例え南京での虐殺がなかったことが真実だとしても、「南京虐殺、」は戦後秩序の中で定説となり決着している。

しかし、中国や韓国は、その「決着済、」の歴史を持ち出し、政治的に利用しようとしている。そのような動きが、「南京大虐殺、」の資料とされるものを、「世界記憶遺産、」としてユネスコが登録することを決定したことにつながっている。

中国側の資料とする物の中の多くを占める写真などには、以前から明らかに虚偽だとされるものが多く含まれると指摘されている。慰安婦問題も同様であるが、すでに国際的に決着済みのものを、政治的な意図から改めて取り上げ、「謝罪と賠償」などと、落ち着いていた戦後秩序をかき回すことは、それ自体が重大な「歴史修正主義、」であると思える。現在、中国、韓国からの歴史での攻撃は、すでに「歴史戦争、」の様相を呈している。私たちは、そのような攻撃に対して、「真実、」での自衛を行うしかない。