毒ガスレベルのスモッグの中の南京市街

抗日歴史戦争の拠点、虚偽写真満載の「侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館」

妄想を、芸術まで高める、逞しい想像力

日本の要人たちも親しく訪れる。海部俊樹、田邊誠、村山富市、野中広務、菅直人、古賀誠、安倍昭恵、鳩山由紀夫、特に孔子平和賞候補の鳩山氏の姿が光る。

中国の近代史における、同朋6千万大虐殺の、大躍進運動、文化大革命の「超大虐殺、」、その虐殺の歴史は展示していない。

「南京大虐殺、」の生みの親、朝日新聞と本田勝一氏。読者の抗議に対しては、「中国側の話を載せただけだから、文句があったら中国へ、」なんだって。

菊池寛賞とった本田勝一氏、うそがばれちゃった。菊池寛賞ってこんなものなのか。

清朝末期、大正から昭和初期にかけて、満州には馬に乗り近隣の町を荒らし回った集団的な盗賊が横行していた。馬賊は、強盗、殺人、強姦を各所で繰り返し、これに手を焼いた現地警察などは、馬賊を捕まえると斬首し、見せしめのためさらしたりしていた。当時、エロやグロが流行った時期があり、みやげ物店などでこれらの写真は販売されていた。

「日本兵による少年の斬首、」とされる写真。南京攻略は真冬の時期で、夏服はあり得ないし、当時の日本の軍服とは異なる。また、間合いがまるででたらめで、刀の握り方がゴルフクラブの握り方で、この握り方は青龍刀の握り方だという。これでは大根も切れない。

「日本兵による斬首、」とされる写真。南京攻略は真冬の時期で、夏服はあり得ないし、雪も無く木には葉が茂っている。軍服も日本軍のものとは違う。また後ろの兵隊と影の向きが違う。

「日本兵による斬首、」とされる写真。南京攻略は真冬の時期で夏服はあり得ない。また、後ろの銃剣を構える兵2名は完全にコピペであり、都合の悪いものが写っていたと思われる。

「南京大虐殺、」の証拠写真とするもの。南京攻略戦によって、多くの犠牲者がでたことは確かだろう。しかし、当然のことながら、それがそのまま「大虐殺、」とはならない。犠牲者の内訳は、中国軍の戦死者、国際法違反の民間人に扮し処断された便衣兵、中国軍による親日中国人の「漢奸狩」による犠牲者、などであり、それらの犠牲者と「虐殺、」されたものとは全く違う。

説明書きに「左手に切り落とした中国民衆の首を持ち、右手に軍刀を持つ凶悪な日本兵、」とある写真。海軍の海兵の写真だが、南京では海軍は戦っていない。また海兵の軍装がまるで違う。よく見ると、首の下に腕がクロスしてあり、腕と首の間に体がうっすらとある。また生態学的に、死人の首ではないことがわかり(死人の場合は口が開く)、体部分をスミで消すなどし、簡単なトリミングを行っている。この写真は、中国国民党中央宣伝部顧問のティンパーリ氏の写真で、国民党側のプロパガンダとして使われたもの。

この写真もティンパーリ氏のプロパガンダ本に掲載されてたもので、「南京大虐殺の際、日本軍に殺害された中国民衆、」と説明書きがつけられている。当時の日本陸軍の襟は詰襟だったが、この兵士の襟は折り襟になっており、ニセ証拠写真である。またこの写真は、アイリス・チャン「ザ・レイプ・オブ・南京、」でも使われており、「南京の南の雨花台の虐殺地点。この写真は南京虐殺後すぐに撮られてた、」と説明書きがある。

南京大虐殺の証拠写真とされ、「南京大虐殺記念館、」に大型パネルで展示され、訪れた多くの中国の子供たちの涙を誘った。日本に対する怒りが増幅され、反日教育に大いに役立った写真である。発表当時は、多くの日本人も深々と頭を垂れた写真だったが、しかし、連続で撮られた別の写真が発見され、やらせであったことが判明、展示した中国の「狡猾さの証明写真、」となった。戦場の廃墟の中に意図的に赤子を一人で座らせ、泣き叫ぶ姿を撮影するカメラマンの作為には、人間として許せないものを感じる。その後この赤子はどうなってしまったのだろうか。

この写真は、「アサヒグラフ、」にあったもので、説明書きは「我が兵士に守られて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供のむれ、」だった。それを本多勝一氏が自著の中で使用し、その説明書きに「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は、七、八歳の幼女から、七十歳を越えた老女にまで及んだ、」としたもの。またアイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京、」では、「日本軍が女性や子供を狩り集めて売り飛ばした、」と、中国慰安婦の強制連行の証拠写真としても扱われた。当初は大きく「南京大虐殺記念館」に展示されていたが、さすがに現在ははずされているようだ。

本多勝一氏は、この写真には「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として日本軍に略奪された、」と説明書きをつけた。しかしこの写真は、「朝日版支那事変画報、」に掲載されたもので、「民家で買い込んだ鶏を首にぶら下げて前進する兵士、」という説明書きがつけられていた。

この写真は「毎日グラフ、日本の戦歴、」の写真で、「手足をもぎとられた中国負傷兵と、彼らを看護する日本兵(南京捕虜収容所で 1938年初春)、」となっていたものが、一部加工され、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵、」と変更され使われた。その後、この写真に写っている日本兵がこれを見て「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです、」と喜んだという。

南京軍事法廷で戦犯として有罪判決を受けて処刑された日本軍将校が、「百人斬り競争、」「三百人斬り競争、」を行ったとされた。しかしこれは、特ダネが欲しかった東京日日新聞(現在の毎日新聞)の記者が、日本軍将校の了解のもとに書いた戦意高揚のための「創作」であることがはっきりしている。この「百人斬り、」の記事により、その二人の将校は日本国内で有名になり、マスコミにのせられた国内の学校関係者らから、戦意高揚のための講義の依頼が殺到したらしい。このため、南京軍事法廷では抗弁することもかなわず、戦犯として処刑された。この東京日日新聞は、南京までの「百人斬り、」を煽り、戦後は毎日新聞として、「南京大虐殺、」として左翼を煽っていく。マスコミの大衆を煽る愚劣さが、戦前、戦後にわたってまったく逆の形で現れている。

南京軍事裁判で、「被害者総数は30万人以上に達し、死体が大地を覆いつくし、悲惨極まりないものであった、」とされた。また、東京裁判では「婦女子2万名が惨殺され、南京城内の各街路は、数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、またバラバラに散乱した死体で街全体がおおわれた。・・・この間血に狂った日本兵士らは、非戦闘員を捕らえ手当り次第に殺戮、略奪を逞しく、・・・。
日本軍兵士は、街頭や家庭の婦人を襲撃し、暴行を拒んだものは銃剣で突き殺し、老いたるは60歳の婦人から、若きは11歳の少女まで見逃さなかった、」とされた。

ここから先の写真は、南京市内の、攻略戦直後から1週間以内の南京市内の様子である。

~~~~~
ここまでの南京虐殺の検証により、「南京大虐殺」なる歴史的事実はなかったと考えるのが妥当だろう。ただもちろん、南京攻略において激戦が行われたことは事実であり、巻き添えになった市民、中国軍により「漢奸」として殺された市民もいただろう。ただ、非武装住民が殺されたという意味での「虐殺」は、中国兵による市民に紛れる「便衣兵」の処刑だったと考えるのがもっとも合理的と思われる。
南京戦後の写真を見れば、南京市民の顔は極めて明るく、また日本兵も南京市民とまったく打ち解けた感じで写っている。それらは 裁判での「日本軍兵士は、街頭や家庭の婦人を襲撃し、暴行を拒んだものは銃剣で突き殺し、老いたるは60歳の婦人から、若きは11歳の少女まで見逃さなかった、」とするのには、虚偽による大きな開きがあると感じられる。